書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ノルゲ』佐伯一麦(講談社)

ノルゲ

→紀伊國屋書店で購入

「重量小説」

 総ページ488。最近の純文学系の小説としては長い。重さにして740グラム。小型のペットボトルなら二本以上だ。このペットボトル二本分以上の本書を筆者は一ヶ月間にわたって鞄に入れ続け、通勤時に少しずつその頁をめくるのをささやかな楽しみとしていた。決して難解な小説ではないのだが、一気に読んでしまいたくはなかった。「ああ、今日もこれを担いで行くのか、重いなあ」と思いつつ、まだ終わりたくない、という気分がいつもあった。

 『ノルゲ』は重さを心地良さとして感じさせるような小説である。500頁近い長さの中で活劇が繰りひろげられるわけでもなく、大きなテーマが語られるわけでもない。むしろ大事なのは時間をやりすごすことや、夜や冬や病いを生き延びていくことなのである。この作品を読んでいると、淡々と流れていく時間が実にいとおしく感じられる。文章に目を走らせるだけで、文章を読むことの幸福が味わえるような気がしてくる。

 主人公の「おれ」は小説家。美術大学に留学する妻につきそうという形で、ともにノルゲ、すなわちノルウェーにやってきた。金に余裕があるわけではない。ベッドさえもない部屋。主人公はかつて電気工をしていた眼をきかせて、引っ越してきたこの安アパートの裏側をめくるようにしながら探りをいれ、「棲み家」として整えていく。

 必ずしも日本人にとってなじみが深いわけではないノルウェー。しかし、その風俗習慣のめずらしさを、旅行記の体裁をとりながら描き出すのが眼目というわけではない。小説が進むにつれて、オスロという都市の独特な空気の希薄さに、主人公の過去がにじむように混入してくる。自殺未遂。前妻との争い。工事中の事故。喧嘩。アスベストが原因の喘息。過去が病の形をとって主人公を苦しめはじめ、ついにその病が現在形となる。原因不明の激しい頭痛が主人公を襲うのである。

 佐伯一麦というと、まずは初期の『雛の棲家』、『一輪』、『ア・ルース・ボーイ』といった小説に描かれる壮絶な争いや苦難を思い浮かべる人も多いかもしれない。本書はそうした作品に比べるとはるかに穏やかな空気に包まれているし、たとえば生活費を稼ぐための大事な原稿を日本に送ろうと必死になるあまり、電話会社のショップで電話機のジャッキをかってに差し替え自分のパソコンをつなごうとしてつまみ出されるといった、大江健三郎を思わせるようなコミックな場面も所々にある。しかし、文章家としての佐伯の覚悟は一貫している。最後の私小説家とも呼ばれる佐伯だが、「自分を暴く」といういわば日本文学の伝統芸能とも言える領域を、それにふさわしい文体をたえず求めながら洗練させていく手並みにはほんとうにほれぼれとする。存命の作家の中でももっとも文章に品を感じさせる人ではないだろうか。

 かつて佐伯が同じような描写をいくつもの小説で使っているという批判がなされたことがあった。もちろん自己模倣は作家がもっとも陥りがちな罠なのだが、佐伯の場合には、同じことを何度も何度も書きつけ、文字と文字が重なり合いつつ、少しずつぶれる中で研ぎ澄ませ発展させていく、というところがある。

 中には、何度でも同じことを書くべき作家がいるのだ。佐伯の文章には石に文字を刻んでいくような迫力がある。書く/語るという作業は遅々として進まない。連想が軽やかに飛んだり、意表をついた言い回しやセリフが爽快感を呼ぶこともない。むしろ語り手は不器用で、くどい。重いのだ。その重さがもっとも露出するのは、語り手が病を意識するときだろう。

「ヴィーゲラン公園前」の停留所で路面電車を待っている間、開けることが出来ない右眼の目蓋を右の手で覆うようにして痛みを堪えながら、おれは途方に暮れる思いがした。さすがにこの状態は、医者にかからなければならないだろうか。だが、保険証を持たない身なので、それはなるべく避けたい。もっとも命に関わるようなら、そんなことを言ってもいられないが。ここまで喘息も何とかやり過ごし、インフルエンザの流行した厳冬も乗り切って来たというのに、滞在もあとわずかな今となって、こんな羽目に陥るとは……。それにしても今日はやけ路面電車が来るのが遅く感じられる。アパートメントへ辿り着くには、途中で路面電車を乗り換えなければならない。その間に、どうにか我慢できているこの痛みが耐え難くなったらどうしようか……。

それが私小説家の生業というものなのだろうが、佐伯の「おれ」という一人称からは、かすかに「おれ」を持てあまし、突き放し、しかし、その振る舞いをつぶさにみつめながら執念深く写し取っていく、という作家の目が感じられる。こうした心理描写の、じれったいほどの丁寧さと、大げさに鮮明な輪郭、それゆえにこそ実現される彫りの深さには、造形美術を思わせるひたむきな寡黙さが表れている。その一方で、そうした執拗さの、その鈍い重さが、低い声で奏でられる魅力的な音楽のようにも響く。

 佐伯に病がつきまとうのも当然なのだろう。「病む自分」を書くというのは、私小説の原点である。病の意識を忘れたら、この作家には書くことはなくなるだろうし、書く必要もないもないのかもしれない。ただ、病や重さというといたずらに深刻になるばかり、かえって鼻持ちならない自己耽溺に結びつきかねないところ、佐伯の魅力は、それが得も言われぬ「不器用さ」によって浄化されているところなのである。「下手」というのとはぜんぜん違う。小島信夫のような「ヘタウマ」でもない。語ることをめぐる過剰な謙虚さと力み。そして執念。入念にストレッチをし、準備体操と練習とをこなす様子が、そのまま文章の構えとなって現れ出ている。ぜったいに「うまい」などとは言わせないような、語ることをめぐる苦しさの身振りが、現代日本語の何かを守ってくれているような気がする。

→紀伊國屋書店で購入