『都市の詩学-場所の記憶と徴候』田中純(東京大学出版会)
エイデティック(直観像素質者)のみに書ける本
人文科学はもはや過去のものという貧血病の負け歌、恨み節は何も今に始まったものではないが、大体済度しがたい語学オンチや無教養人とぼくが見ている連中に限ってそういうことを言っているので、本気で聞かない。なに、人文科学はこの四半世紀、かつて見ない自由度と結実の豊穣を見、しかも昔なら何の関係がと思われていたディシプリンの境界あたりで他の知の領域と生産的に混じり合って何とも形容しようのない快と愉悦をうみつつある、ということをぼくなど、浅学の者なりにしたたかに予感し続け、そして現に今、天才田中純による一大スケールの新人文学マニフェストを見て、この予感が的中していたことを改めて心強く実感している。
例えば記憶術が面白いらしいといろいろ「紹介」しても、ハナで嗤われた。ヴンダーカンマーをやらないでどうすると主張しても、渋・種小僧の暇つぶしと言われた。アール・ヌーヴォーとナンシー派心理学の連繋をエミール・ガレを通して語るデヴォラ・シルヴァーマンの大冊(“Art Nouveau in Fin-De-Siecle France : Politics, Psychology, and Style”/邦訳『アール・ヌーヴォー-フランス世紀末と「装飾芸術」の思想』)に興奮して「紹介」しても、何のこっちゃという扱いだった。今は歴史家サイモン・シャーマの「クロニクル」の再評価的方法による歴史学の「紹介」を終えて、なぜか彼我の差が全く感じられないバーバラ・スタフォードの、まだ訳し切れていない何冊かの邦訳に忙殺されている。
といった高山宏のこの20年ほどの過去と現在を軽くスッポリと射程におさめてしまう仕事が、いずれ出てきてくれないと困ると思ってはいたが、こんなにも早く登場してきてくれてはね、と頭掻いている。それが田中純氏の一連の著作著述であり、極めつけが今次の『都市の詩学』である。アカデミーに捉われない自由な博言博読を背景に個性的な文章使いで一種知的な抒情さえ醸す視覚文化論ということでは、海野弘の『装飾空間論-かたちの始源への旅』(美術出版社、1973)、そして多木浩二『眼の隠喩』に次ぐ驚くべき完成度のエポック・メイカーたる一着ではあるまいか。
だが<波打ち際の知>を標榜するからといって、いわゆる<学際的>分野にありがちな、門外漢のいい加減な思いつきをほしいままにした衒学的エッセイと受け取られてしまうとしたら、これほど無念なことはない。本書では、実証主義的な真理の限界をも問わざるをえないがゆえに、実証性を確保できる場面では、よりいっそう厳密な論理と精密な考証を心がけたつもりである
と著者言にあって意外な小心に苦笑いしたが、この一著通読して誰が「いい加減な思いつき」などと思うものか。視覚文化論という小洒落た枠を外せば、最も輝いていた時の山口昌男的パースペクティヴをしっかり持つ。山口の最大傑作『文化の詩学』(〈1〉/〈2〉)の強力対抗馬。達人たちが行き着くところ「詩学」というのも偶然でなく、面白い。
例えばこんな文章をさらりと書けるか。
一九二〇年代から三〇年代にかけてのヨーロッパ、とりわけドイツにおいて、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの形態学(モルフォロギー)は、美術史を含む数多くの学問に多大な影響を与えた。それはたとえば、アビ・ヴァールブルクの図像アトラス「ムネモシュネ」、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』、アンドレ・ヨレスの『単純形態』、カール・グスタフ・ユングの「元型」概念、オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』、ルートヴィッヒ・クラーゲスの「表現理論」、ウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』などである。一方において形態学は、シュペングラーの場合のように、擬似科学的な思弁に陥る危険を孕んでいた。しかし、他方において、クロード・レヴィ=ストロースに対するプロップの影響が示すように、形態学の方法は文化現象の科学的分析、とくに構造主義やカルロ・ギンズブルクの「ミクロ歴史学」の方法論を準備するものであった。(p.185)
ゲーテのモルフォロギーに淵源を持つことが少しずつ知られ、少々好事家風扱いながらロジェ・カイヨワやバルトルシャイティスなどの仕事を通してその片鱗が知られる程度の形態学よ再び、の輝かしいマニフェストでもある。『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』もそうであると言えるが、読者が限定されるモノグラフより、間口の広い今作『都市の詩学』の方が、田中純躍進のためには絶対好個のマニフェスト本だ。出来方は『都市表象分析〈1〉』と同じだが、同じ雑誌『10+1』連載記事のコンピレーション本といっても、この『都市の詩学』は、「都市」という「通時的な出来事の無数の連鎖を、巨大な規模で物理的に、共時的な空間構造として記録してゆくメディア」(p.164)が、その厄介な相手を読みほぐす方法の模索のど真ん中、そうした融通自在な方法のあり方自体の中に姿を現すという、まるで田中氏が間断なく参照するベンヤミンやアルド・ロッシそのものの都市表象分析の方法論を一貫して追跡していく。そのはっきりした目的意識が旧作とは違うし、暴力だ戦争だという暗めの話(?)をテーマにした『死者たちの都市へ』よりも、田中純への入り口としては断然良いのかもしれない。
アルド・ロッシの『都市の建築』や『科学的自伝(アルド・ロッシ自伝)』の分析により、集合的記憶としての都市、特に境界域の創造的両義性のテーマ、ヴァールブルク研究で自家薬籠中のものとなった「パトスフォルメル(情念定型)」を対象に求めていく方法、「隠れたものを上手に発見する」セレンディピティ、即ちギンズブルクが「徴候的な知」と呼び「狩人の知」と称した方法でないと、そうした都市の「アハスウェルス」(「さまよえるユダヤ人」の名)としての変幻無限な相貌は捉えられまい、という本全体のテーマと方法の全部が示される。あとはこのロッシ論の展開である。
とは簡単に言うが、上に引用した文章に明らかなドイツ文化・社会学の系譜、特にベンヤミンへの並々ならぬ傾倒、『分裂病と人類』の中井久夫、ある時期、新しい学のバイブルとして人気のあった『胎児の世界』の三木成夫の世界への深い共感、網野善彦・中沢新一コンビの境界文化論への親和など骨太な背景を構えながら、江戸の連歌やら小村雪岱の「面影」絵やら、トマソン物件・路上観察学会やら、カエルの進化論・図像学やら、畠山直哉や森山大道の写真やら、次の章に何がとび出してくるやら、まるで一個のヴンダーカンマーさながらの面白さである。確かに一方で中沢新一本の与えてくれる学と芸の面白さが田中純のコンピレーション本にある。「痙攣的な美としての驚異」というわけだが、ヴンダーカンマーを江戸博物学とつなげる一章もあって、ローレンス・ウェシュラーの奇書を肴に、ぼくなど十年掛かりでやってきた世界をさっと、しかも過不足なく整理している。リンネの知られざる一面の話は、ぼくの虚を突いたし(ぜひ自分で読んで!)、「19世紀のパリが、すでにひとつのクンストカマー」という一行で、ぼくが長年つなげられなかったふたつが一遍につながった。
兎角、目次がこんなに楽しい経験は最近珍しい。視覚文化全体から、詩学を標榜する以上、言語化された都市(連歌から朔太郎まで)も話題に乗せる。視覚と言語の間を越える手続きはもちろん議論されるが、「都市は街路名によって言葉の宇宙となる」というベンヤミンの一言の引用で全てオーケーとなるところが、ベンヤミンの、そして田中純の神がかりだ。
個人的に一番感心したのは、参照されて登場する人やその所説が次々喚起され、交錯する最中にいろいろ巧みに混淆して、認知考古学だの、生命形態学だの、生態心理学だの、見慣れぬ新知・奇知のインターディシプリナリティが至極自然に現れ、いま現在、行き詰まっている学知の世界がこうして模範的に融解・融和されていく、いわば現場の刹那刹那を目撃できること。そのスピード感はさすがの山口昌男本にもなかったし、並べるならやはり中沢新一氏だが、田中氏にはこの好敵手にない「精緻な考証」もある。いま現在、境界を越えるべき時にさしかかっている人文学が、永遠に境界にあればこそ生彩ある「都市」に自らを鏡映することでその危機を知り、越えていけという熱いメッセージと読んだ。
もうひとつ個人的なことを。今後あり得べき(田中氏の言う)「神経系都市論」のことだが、ぼくが一時百パーセント感激没入したバーバラ・スタフォードの仕事、彼女と雁行するホルスト・ブレーデカンプの業績を、ヴァールブルクの「古代の残存」美術史学と結びつけてその意味を文脈の中でわからせてくれた「神経系イメージ学へ」という一文こそは、面白さのみに引きずられいわば力ずくで「紹介」してきたスタフォードの仕事を、「紹介」者自身にはじめてわからせてくれた電撃的な一文であった。スタフォードやそのドイツ圏の眷族が追求中の「あらたな陶酔の技法を知る神経病理学」の動向は、いま現在一番重要な学問語になりつつあるドイツ語に堪能な田中氏が熟知している。といって、フランス語だって、ディディ=ユベルマンひとりで大変な豊穣を誇っているが、それももはや田中氏のフィールドである。
いま指折りに面白い人と分野をこうして総なめにし(ふたを開けるとつまらぬものと知れる相手に、見たところ全く手を出していないところが凄い)、その本を「まだかたちをとらないそんな理論を予感させる思想の系譜が描いた歴史のアラベスク」と自評する言葉がまたニクい。コンテクストの中で生きる一行二行がアフォリズムとして立派に立つこの人の文章は麻薬的だ。さらに学のある平出隆や港千尋というこの感じは本当に凄い。ぼくは、嫉妬を感じる必要のない老年に達してしまったことを幸運に思う。ぼくの書物殿堂にこれも入れよう。ヴァールブルク論はきつい本だったが、『都市の詩学』は幾重にも楽しい。