『江戸の大普請-徳川都市計画の詩学』タイモン・スクリーチ[著] 森下正昭[訳] (講談社)
タイモン・スクリーチにこんな芸があったのか
「その筋」のお偉方に「青い目の人間に江戸の何がわかる」などと言われながら、『江戸の身体(からだ)を開く』で新美術史学の新しい「黄金時代オランダ絵画」観とのアナロジーによる江戸「認識論」革命を論じ、博士論文の邦訳『大江戸視覚革命』ではB.スタフォードと対抗するように本朝における18世紀「アートフル・サイエンス」の様相を一挙に明るみに出してみせることで、タイモン・スクリーチは誰に何と言われようと江戸を標的にするナンバーワン・ジャパノロジストになった。そして一挙に「くだけた」ところでは、「高橋鐵以来」(中条省平氏評)という『春画』で講談社選書メチエにおける高売上の記録をうちたてもした。
もう東京に20回も来た、と今回の本で威張って(?)みせているが、20回くらい来たところで何、ということが外国人による江戸研究には、どうしようもなくある。もっと頻繁に来て長く滞在しろと、ぼくは友人として、企画プロモーターとして、(かつての)翻訳者として言い続けている。日本に少しいて材料を集めては、(〆切督促の電話のない)静かなロンドンで執筆する、というヤワなやり方では力不足だ。
スクリーチ氏を批判する者はそれこそ重箱の隅をつつくようにディテールの曖昧やテクストの誤読をあげつらうが、実際、彼にはびっくりするようなミスが多かった。検校タモツキイチというのがいて立派な業績をあげていると言うのだが、はて、としばらく読んでみると、保己一、即ち塙保己一のこと。第一、「検校」を文字通り、ものを調べる学校の意味にとって、勝手なことを言っている。呆然とするばかりのこの種のミスを「摘発」しながらの邦訳はそれなりに面白かった。上述した『江戸の身体(からだ)を開く』と『大江戸視覚革命』の二大著および『定信お見通し』についてはこうした大中小のミスがほぼ(?)絶滅しているが、編集担当の加藤郁美さん(お名前をあげるのをご本人はきっといやがられると思うが)が土日返上で早稲田大学図書館と国立国会図書館に「お籠り」してスクリーチ氏が引く一次資料を片端から点検し、ぼくはそれを基に翻訳したというのが実情だ。
『定信お見通し』など、当時破竹の勢いの今橋理子氏の切っ先鋭い江戸表象文化論を意識しながら、資料のあまりといえばあまりにズサンな読みに呆れ、越権覚悟の斧鉞を加えるの余儀なきに至った。故種村季弘氏の朝日新聞掲載評に、日本美術史の世界がぼやぼやしているから外国人にいいとこどりされたとして、それにしてもこれはスクリーチ、タカヤマの共著という印象を受けると書かれ、流石っ!と感心しながら冷汗三斗であった。ぼくはこのなかなかスケールの大きいジャパノロジストを全くのスタートから一定高度に立ち上げるブースターエンジンの役を引き受け、大体上記の数冊を訳したところで任を完遂したと認識して、今後は別途翻訳者を自分で見つけてやっていくようにと提案した。
日本人がシェイクスピアについて何か言っているようなものだから、大中小、くさぐさのミスは仕方ない。本を出すたびにミスは減っているし、これからだ。そういうこと一切に目をつむっても良いと思わせる魅力がスクリーチ氏にはある。氏自身繰り返し認めているようにディテールの綿密さでは日本人研究者に敵わないが、アプローチの方法論に日本人にはない絶対の新味がある(E・H・ゴンブリッチに導かれ、スヴェトラーナ・アルパース、ノーマン・ブライソンに師事、マイケル・バクサンドールに兄事したばりばりの新美術史学派)。それに、日本人研究者がやらないようなことをやらない限り先がないという「斬新さ」の強迫観念が、いい。何をやる気なのだろうと、いつもタイプ原稿をめくりながらワクワクする。
他の翻訳者によるスクリーチ本を手にするのはこれで三度目だ。細かいミスがないようにと念じつつ読み出すと、これがどうして面白い。あっという間に爽快に読み切れた。
江戸城天守閣消失のあと再建しようとしなかった将軍家の戦略的な「図像学的抑制」は著者の長年の持論。この「不在の図像学」論をさっさと置き去りにするかのごとく、日本橋の「日本の臍(へそ)」としての意味、京都への対抗意識も手伝っての風水都市江戸論が、猛烈なスピードで展開される。東海道53次の53の数秘学、終点/始点の二つの「品川」があることの意味など、矢継ぎ早に結びつけて江戸の中心/周縁の記号論を構成してみせる。
が、白眉は最終章「吉原通いの図像学」である。絵と文学の吉原関係資料を組み合わせた上、吉原への「道行き」を、まるで一人の遊客の目線で、何がどう見え、どう聞こえてくるか克明に再現し、一夜ごとの「死の訓練」でもあるかのごとき非日常な「仙女界」での擬似宗教的体験が描き出される。最後は「行く猪牙(ちょき)ハ座像 帰る猪牙寝釈迦」とは笑う他ないが、この珍妙な道行きをなぞる文章の洒脱。この異人、ひと皮むけたね。