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『綺想の表象学-エンブレムへの招待』伊藤博明(ありな書房)

綺想の表象学

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視覚メディア論、どうして最後はいつもイエズス会

一時、エルメスのエンブレムなどといって、随分フツーに「エンブレム」という言葉が使われた。実は16、17世紀ヨーロッパ文化が一挙に視覚文化の色合いを強めていった時の尖兵となった画期的な画文融合メディア、伊藤博明氏の言う「イメージとテクストの両者に訴えかけた中世・ルネサンスのある文学ジャンル」(p.158)であったものが、今日なんとまあ軽くエンブレムなんて呼ばれて、と嘆くこともない。たとえばEveryman's Libraryのワールド・クラシック叢書などによく付いている大きな船の錨にくねくねっとからみついた海豚も実は立派にエンブレムだ。立派にエンブレム、とは?

本書によると「錨にからみつく海豚というヒエログリフ」を自社の社標として最初に選んだのは1501年、ルネサンス・イタリアのアルドゥス・ピウス・マヌティヌスであるという。時代はダ・ヴィンチの死、そしてローマ却掠を間近に控えたマニエリスム前夜だ。この書肆と眤懇だった大エラスムスが、「錨は船を遅らせ、留め置くので<遅さ>を表す。海豚は、これよりも速く、敏捷に動く動物なので<速さ>を表す」と説明したそうだ。「もしこれらが巧みに結合されるならば、<常にゆっくり急げ>という格言が出来るだろう」。なるほど、なるほど。長年の謎、というか謎であることさえ知られなかった社標、商標のいわれが氷解。

ヒエログリフ」はいまさら言うまでもないが古代エジプトの絵文字。ルネサンス期にホルス・アポッロ(ホラポッロ)『ヒエログリフィカ』が「発見」されて(1419)一挙、ルネサンスに時ならぬエジプトマニアとヒエログリフィックス熱が生じたことは周知のところ。「普通の文字で記されたものはいつか忘却される」(L.アルベルティ)のに対し、「絵」はその曖昧/多義な性格のまま持続力ありというので、古来というのでもなく新時代の日常に根ざす意味や新解釈が加えられ、コロンナ『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』のような画文一体の幻夢建築奇譚(1499)などがうまれた。故澁澤龍彦が偏愛を隠さなかった『ポリフィルスの夢』のことである。こうして日常化されたヒエログリフに、さらにインプレーサが加わって、これがエンブレムの材料になっていくのだ、と『綺想の表象学』は言うが、類書ではもうひとつ歯切れの悪いこの三者の関係についての説明が非常に明快で良い。

「インプレーサ(impresa)」というのは飽くまで一人の個人の鴻業、野心、性格がそれを見るとわかる図柄で、説明の文句(「モットー」と言う)が付く(“motto”“legend”“device”など皆、この辺の面白い意味を持つことを、辞書で改めて確認した)。これがその個人を含む一族といった集団によって繰り返し使われエンブレムと化していくのだとか、個人的意味を卒業してもっと普遍的な意味、万人向けの道徳的教訓を持つとエンブレムなのだとか、いろいろ細かい例外はあるにしろ、副題に「エンブレムへの招待」を謳う入門書にはぜひ必要な枠組の、類書に見ぬこの明快さは非常に貴重だ。

著者自身、今まで日本人に馴染みのないこのテーマの「入門書」を心掛けたと言っている。ヒエログリフ復権、インプレーサ流行、そしてエンブレムの各方面での発展、宗教そして聖俗の「愛のエンブレム」といったサブジャンル化を経て、イエズス会の視覚的布教戦略に説き及び、すると当然、日本への到来(司馬江漢)という章立てはゆるやかに時系列にも沿い、ポイントになる話柄も過不足なく取り上げられていて、まさしく入門書としては文句なし。

インプレーサにしろエンブレムにしろ、絵を言葉が解き、言葉を絵が文字通り絵解きしている画文融合の面白いジャンルである。何かの具合で文字がなくなれば、絵はエニグマ(謎)と化すという関係。もっとも説明の文字があっても、然るべき古典や聖書の知識がないとやはりこじつけめき、謎めいたままで、そこの解釈の面白みがエンブレム研究の、ひいては本書の一番の面白さであろう。

自分の尾を咬む蛇はウロボロスといって、ゆっくり、しかし確実に進む故に時間を表す、くるっと円環する時間、つまり季節の巡りを表すといった単純なものから、そういう単純な要素の累重によってめちゃくちゃ複雑になったケースまで、学説の隘路に入らず、次々そういう読みの具体例でページが埋まるので、解き明かされる感覚を楽しめるゲーム感覚のある読者なら、浩瀚500ページ、さしたる苦ではない。というより想像通り、エンブレムを作るのはルネサンス宮廷内で奇想とこじつけの頭を競う、ダンスなどと同じ「一種の遊戯」であったかもという指摘で、読者は研究などと構える気負いから救われる。

変わった世界のように見えるが、たとえばぼくが大学・大学院でシェイクスピアなど勉強していた1970年前後にはイコノロジーという大名目の下で文学、特に演劇をエンブレムの計算ずくの集合体と見る研究がむしろ主役じみて、岩崎宗治、藤井治彦といった秀才たちの研究が若者たちを驚かせたものだが、なんだかそれきり。エンブレム探しゲームに終わる本ばかりの中、ロイ・ストロングの『宮廷繚乱』のように、時代におけるエンブレムの装置を明快に書いた名著もあり(『ルネサンスの祝祭』として平凡社より邦訳)、そしてその一著で全てという例の「プラツェスコ」(プラーツ的)な書、マリオ・プラーツの『綺想主義研究』も日本語で読めるのだから、昨今マンガやアニメをやればヴィジュアル・カルチャー研究と思い込んでいるそれはそれで少々情けない風潮に抗して、言葉と物(つまり絵)の関係――「ウット・ピクトゥーラ・ポエーシス(詩は絵のごとく)」ともエクプラーシス(ecphrasis)とも呼ばれる画文融通の異ジャンル――を、ここいらから一度本気で鍛え直した方が良いのではなかろうか。

それにつけても、もの凄いシニョール・イトウである。プラーツ『綺想主義研究』も伊藤氏に訳させてしまった書肆ありな書房である。ありな書房にプラーツとイタリア異美術史学の路線を始めさせたのは、かく申すぼくであるが、ここまで「暴走」してくれるとは想像だにつかず、いよいよこれからが大事という本邦の視覚文化論鍛え上げ、叩き直しのための重要拠点であるという自覚を、この名版元には固めて欲しいと願う。

本書に扱われる縁遠そうな文献、ホラポッロの『ヒエログリフィカ』、ジョーヴィオ『戦いと愛のインプレーサについての対話』、パラダン『英雄的インプレーサ集』から、ついには伝説のチェーザレ・リーパ『イコノロジーア』まで、そのあらかたがありな書房から「邦訳が進行中」だそうで、プラーツ選書、ヴァールブルク著作集に次ぐ「英雄的」企画と讃えたい。記憶術テーマの鍵、G・カミッロの『劇場のイデア』も訳し、J・シアマンの(名作『マニエリスム』より実は凄い)『オンリー・コネクト・・・』まで訳そうというありな書房、そして伊藤博明の今年には、またまた目が離せないだろう。

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