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『イラクサ』アリス・マンロー著、小竹由美子訳(新潮クレスト・ブックス)

イラクサ

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いけずな作家

 アリス・マンローはカナダの女性小説家。ここに収められた9つの短篇は最後の作品を除いて、女性、とくに人生も半ばに入った女性を主人公としている。女性に人気の作家というが、男性のぼくにもおもしろかった。小説の作りがすごくうまい。まずそう思った。次に思ったのは、マンローっていう人は、「いけず」(いじわる)だなあ、ということだった。

「浮橋」という短篇がある。死に至る病いを得ている中年女性の物語である。夫は福祉関連の仕事についているらしい。冷たい人ではないのだけれど、夫の言動の一つ一つが勘にさわって仕方がない。自分は死んでいくかもしれないのに、夫は他人様の不幸ばかり心配している。――というストーリーなのだが、この作品にはひとつ屈折がある。この女性は、一度は死を宣告された身だが、抗ガン剤(?)の治療のおかげで、助かるかもしれないと言われるのだ。しかし、それは救いではない。苦しい治療がまた続くことになるからである。もう助からないと思っていたときには諦めがついた。でも、諦めがつかないので、苦しくなる。気持ちが揺れる。そういう宙ぶらりんの状況を設定してマンローは小説を展開する。

 「イラクサ」という表題作はどうか。大きな不満というわけではないけれど、やはり、夫婦関係のなにかが不足し、なにかが不満だと思っているが中年女性が主人公である。小さいときに引越しをしてしまった幼なじみに、偶然、友人の家で出会う。この幼なじみと人生をやり直すことができるかもしれないと彼女は心密かに思う。二人がゴルフをする場面で、突然、雷が鳴り出す。ロマンスの起こる時の定番だ。激しい雨が降り出し、二人は、雨宿りのために、あわてて草むらに入り込む。そして定石どおりキスをする。しかし、二人は人生をやり直せない。男は息子をみずからのミスで轢いて死なせてしまった過去をもち、その罪悪感に悩んでいる。罪悪感はいまの夫婦関係を逆に強くし、この男を拘束する。男はみずからの過去を告白するが、そこでマンローは女性に心のなかでこんなことを言わせるのだ。「わたしたちになんの関係があるっていうの?」。どうして女性は、こういうとき、自分中心の台詞を吐くのだろう、と思ってしまうが、女性のエゴイズムをマンローはきちんと書き込んでいる。

 最後の短篇「クマが山を越えてきた」は、この作品集で唯一、男性が主人公である。妻は年をとって、呆けてしまう。施設に入れたのはよかったが、妻は同じ施設の男性に恋をしてしまうのだ。しかも妻は自分のことを夫とも認識しなくなっている。――こんな話はいくらでもあるにちがいないが、この作品にも仕掛けがある。この夫は元来浮気性なのだった。だから、可哀想な夫のオハナシにはならない。浮気を繰り返した自分の過去を振り返るならまだしも今もまた浮気のチャンスを狙っているような男なのだから。しかし、妻が自分を認めてくれず、別の男に心を移していることにはやっぱりおろおろする。その一方で、ボケてしまった妻が恋した男が施設を出てしまってからというものすっかり悄げきったのを見て、なんとかこの男を妻に会わせたいと願って、男の家に訪ねていったりもするのである。

 マンローの短篇小説は、話の屈折のさせ方がうまい。基本はどこにであるような日常のオハナシなのだけれど、ちょっとだけ、仕掛けがしてあるのだ。そのようにして、必ずしも自分の思うようにならない生の日常、トゲトゲが意地悪くついている「イラクサ」のような人生の断面が描き出されることになるのである。

 仕掛け、という言い方をしたのだけれど、マンローという人は非常に技巧的な作風の作家である。丁寧に読まないと大事なことを読み落としてしまう。言い換えると、マンローの作品は、ある種の謎解きみたいにもなっていて、その謎を解くことが作品を読むことの愉しみにもなっている。

 だから、この書評ではあんまり種を明かすことはできないが、上でちょっと紹介した「浮橋」の主人公が「帽子」(抗ガン剤治療をしている主人公は髪がみんな抜け落ちていて帽子をかぶっているのだ)をいつ被りいつ脱ぐかといったことに注目して読んでいくと、じつに巧妙な仕掛けになっていることがわかるはず。大学の英文学科の授業のテキストに採用して短篇小説の読み方を教えるのにうってつけの短篇だ。ちなみにこの「浮橋」という短篇は、後半に、素敵な若い男性が風のように現れ、近くの「浮橋」に連れていってくれるという話。その末尾のロマンティックな浮橋のシーンは、多くの中年女性をうっとりさせるであろう(でも、これって、浮気する話だよねえ)。

 この「イラクサ」という本、原題をHateship, Friendship, Courtship, Loveship, Marriageという。本書の冒頭に入っている短篇で、訳題では「恋占い」という作品。占いふうに訳せば、「嫌い、お友達、片思い、両思い、結婚」というぐらいだろうか。この短篇は、中年の、魅力的とはとても思えないひとりの独身の家政婦の物語である。

 これも、マンローらしい「いけずな」話であって、彼女が働いている家の娘(とその女友だち)が、ニセのラブレターをでっちあげて、この家政婦をからかう話である。その残酷な悪戯のおかげで、心も身も固くして生きてきた家政婦が、遠くカナダの西の果てのほうに住んでいるさる男やもめと結婚できるかもしれないと期待してしまう。この男やもめはホテルを経営しているという。長い時間をかけて列車で西部へやってきた彼女は、目的の駅に到着して目指すホテルを探して歩き始めるが、それらしい建物が見つからないので、地元の人に聞くと、反対方向にあるという。彼女は、駅をおりたとき、じつはその建物を見ていた。「来たときにちゃんと列車から見ていた。そのときは、大きくてかなりうらぶれた、おそらく打ち捨てられた普通の家だろうと思っていたのだ」と書いてある。本当にそうなんだろうか。たぶん、彼女はそれがホテルかもしれないとわかっていたのだ。だけど、バラ色かもしれない未来が、そんなホテルで開けるとも思えないから、彼女は見えないふりをしたのではなかったのか。あのホテルであるはずがない、どこか別のところにもっと素敵なホテルがあるはずだ、と思って、彼女は別の方向へ歩き始めたのではなかったか。マンローは、駅に着いて、みすぼらしいホテルをすぐに見つけていきなり落胆の奈落へ落とされてしまう、というようなストーリーにはしない。わざと駅を出てから迷わせるのだ。心のちょっとした油断、愚かな期待を、たとえば、マンローはこんな何気ない仕掛けで描いてしまうのだ。

 この短篇は家政婦にとっても悪戯をしかけた少女たちにとっても予想外の結末を迎えるのだが、その予想外さに見合うように、作品は、ホラティウスの「問うてはいけない、我々が知ることは禁じられているのだから---いかなる最後が用意されているのか、わたしに、あるいはあなたに」というラテン語の一節を少女のひとりが勉強しているシーンで終わる。言うまでもない、人生はどうなるか分からない、という寓意であるが、この結末はどうなんだろう。マンローにしてはずいぶんとあざといのではあるまいか。

 と、ここまで考えて、この短篇にこういうシーンがあったことに気がついた。少女のひとりがもう一方の少女に占いを教えたという何気ない一節である。その占いというのが、表題の恋占いである。どういう占いかというと、男の子の名前と女の子の名前を書いて、重なった文字をぜんぶ消して、残ったのを数える。そしてその数だけ、「嫌い、お友達関係、片思い、両思い、結婚」と指を折っていく。そうして、その男女の相性が分かるというわけだ。もしや、と思って、その占いをぼくはこの家政婦についてもやってみた。家政婦の名前はジョアンナ・パリー、男性の名前はケン・ブードローだが、占いは原語でやらないと意味がないだろうから、Johanna ParryとKen Boudreauでやってみた。おお、思ったとおり!(良い子のみんなは、この本を読んでから、この占いをやってみるように。)

 ちなみに、訳書では、名前はカタカナ表記のままで、英語の綴りが記されていない。この仕掛けはぼくにはどうしてもただの偶然とは思えないのだけれど、英語の綴りをどこにも記していないところを見ると訳者はこの仕掛けに気づいていなかったのか(それとも敢えて翻訳上無視をしたのか)。一文一文丁寧に付き合った訳者にすら、その存在を気づかせないほどひそかな仕掛けを施すマンローは、やっぱりいけずな作家である。


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