書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『アルス・コンビナトリア-象徴主義と記号論理学』 ジョン・ノイバウアー[著] 原研二[訳] (ありな書房)

アルス・コンビナトリア-象徴主義と記号論理学

→紀伊國屋書店で購入

『アムバルワリア』を読んだら次にすること

チェスで人がコンピュータに勝てないと判ってからどれくらい経つか。感情や情念といった言葉を持ち出して、人にしか書けない詩があるという人々はなお多く、現に「詩」は相変わらずいっぱい書かれている。しかし、チェスの棋譜を構成していくのと同じ原理が詩をつくるとすれば、人は詩作でもコンピュータに勝てないことが早晩判るはずだ。そう考える詩学がある。チェスと詩学が全く違わないことを、作家ボルヘス『伝奇集』中の有名な「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」に宣言した。

ニーチェが「感情の冗舌に抗して」成り立つとした文学観が存在するが、この言い分をキャッチフレーズに掲げたロマニスト、グスタフ・ルネ・ホッケの我らがバイブルたるべき『文学におけるマニエリスム』によれば、「マニエリスム」という文学観がそれで、読むほどに、ヨーロッパで成立した詩学が日本人の考えるような「詩」とは全く違うマニエリスム文学観の所産だと知れて、ほとんど愕然とする。西欧の詩を律する詩脚の数合わせ、押韻の組み合わせ、それはほとんど数学的と言ってもよいし、出来上がった作品は建築物に酷似している。一時ヤワな日本現代詩壇で「定型」をどう考えるかという議論が盛んだったことがあるが、数学に似た詩の形式美をポエティークとして捉えるという本格詩学の立論など出てくる気配はなかった。間違いなく「感情の冗舌に抗し」た西脇順三郎『Ambarvalia-旅人かへらず』が、講談社文芸文庫創刊20周年を祝う「アンコール復刊」の先陣を切って読める。この機会に西脇の中に脈流した異様な(本当はこちらが正格正調の)詩学をちゃんと受け止めるべきである。

ホッケの『文学におけるマニエリスム』がドイツで出たのが1959年。来年はちょうど50周年。「言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術」という副題からしていかにも邦訳聖典化された1970年代トーキョーの熱気が偲ばれるが、世情人心すべてが「統合」を渇望する「分断」の水瓶座相にある肝心の今、書店に並んでいない。1957年、先行して出たホッケの『迷宮としての世界』にしても同じ状況で、昨2007年がその50周年だったのに、そのことに触れたドイツ語圏文化・文学関係者の一文も見ない。総じて我々日本人は危機に鈍感、ないし無関心なのである。

もう一度言うが、本国ドイツでは文学と数学の相同を探るタイプの文化史が今まさに旬なのだ。先回来のパラドックス研究絡みで言えば、Paul Geyer & Roland Hagenbüchle,“Das Paradox”(1992)から、Andreas B. Kilcher,“mathesis und poiesis : Die Enzyklopädik der Literatur 1600-2000”(2003)まで、本当にいっぱいある。今までの人文学がいかに偏狭なものであり、そしてこれからが本当の人文学なのだと宣言する茫然自失の作品が目白押し。またお得意の知識のひけらかし、と言う声の聞こえてこぬでなし、この辺でよすが、かつて大なり小なりホッケ教徒を号したはずの団塊の世代の「定年後」惚けの忘恩ぶりには些か失望した。

しかし、<間>をつなぐ素晴らしいセットアッパーが存在する。それがジョン・ノイバウアーの本書だ。原題は“Symbolismus und symbolische Logik : Die Idee der 'Ars Combinatoria' in der Entwicklung der modernen Dichtung”(1978)。これを直訳して「象徴主義記号論理学」とするのは実は違う(もとは同じ「シンボル」を「記号」「象徴」に分け、別物と理解し始める日本語、日本人の西欧理解の浅さに起因)。そこで邦訳ではこれを副題にまわし、原書の副題「アルス・コンビナトリア」をメインタイトルにしている。

マラルメヴァレリーの詩的「象徴」主義と、ラッセルやカントールの名で思いだす「記号」論理学を通時・共時の両相で同列に論じた。詩と数学が19世紀末からモダニズムにかけて重合し、この重合の源泉がノヴァーリスのロマン派にあり、さらにその源流がマニエリスム数学者ライプニッツの「組合せ術(ars combinatoria)」にあり、さらにその源流は・・・と遡及して、結局ホッケのマニエリスム文学史の主知的な半分(残り半分は汎性愛主義)をそっくりカバーしつつ、これまた今はもう入手できないパオロ・ロッシ『普遍の鍵』に始まる「記憶術(ars memorativa)」研究の肝心なところを伝える途方もないチャートを、ふるえるような目次案によって示してくれる。

またきな臭くなり出した「分断」のセルビア。そこにポストモダンをつくりだした『ハザール事典』のミロラド・パヴィチは、コンピュータが自分の小説の読み方を広げると言って逝った。小説にもチェスやコンピュータと区別つかぬ「詩学」があり得るのか。あり得ると言ったのがあの『青い花』ノヴァーリスだとノイバウアーに説かれて、昔ながらの「感情」べったりのロマン派観をなお抱き続けられるものだろうか。訳者原研二氏が次の標的にしているのはブレーデカンプのライプニッツ論の由。なんとも嬉しい流れである。

→紀伊國屋書店で購入