書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『或る「小倉日記」伝』松本清張著(新潮社)

或る「小倉日記」伝

→紀伊國屋書店で購入

極道者・松本清張

 推理小説家として知られる清張だが、この短篇集は、芥川賞を受賞した表題作をはじめとして、清張が若い頃に書いた純文学作品を中心に集めたものである。このところ、新潮社は、団塊世代が定年を迎えるのに合わせてなのだろう、過去の名作やベストセラーを次々と復刊している。柴田翔の『されどわれらが日々』も小島信夫の『アメリカン・スクール』もそうだ。松本清張のこの本も「おとなの時間」という名前の帯と一緒に店頭に並んでいた。


 いまさら松本清張、と思わないでもないし、彼の作品は高校・大学時代にたくさん読んだはずだが、この短篇集は読んでいなかった。いい機会だと思って読んでみたら、これが予想外に面白かったのだ。予想外というのは失礼な言い方かもしれないが、さすがベストセラー作家の清張だけあって、とにかく読ませてくれる。文章それ自体は紋切り型で月並みなところがあるとはいえ、表題作「或る『小倉日記』伝」など、私小説的なわびしい風情も漂っていて、純文学作品としても悪くない。

 しかし、ぼくがこの本で楽しんだのは、この短篇や、狂っていく一人の女性歌人の末路が哀しい「菊の枕」といった、文学的にも価値の高いと思われる作品ではない。この本の解説はいまは懐かしい平野謙だが、その平野が「通俗的に堕している」と評した作品「断碑」(と「笛壷」)、これらがぼくには面白かったのだ。なにが面白いかというと、これらの作品の、「濃さ」である。

 「断碑」は、中学校を出たあと地方で代用教員をしながら考古学を勉強している男が主人公である。彼は能力はあるのだけれども(能力があるがゆえに?)猛烈に上昇志向が強くて、官立の大学の権威といわれる人に取り入ろうとする。そのためには、敢えて、自分がよしとしない学説をも学会誌で公然と擁護もする。ところが、そうやって取り入ろうとする相手から袖にされるや、今度は臆面もなく違う学者に乗り換える。むろん、そんなことをしていれば年上の人たちからは嫌われる。そこで、今度は自分で学会誌を作り、若い連中と付き合うようになるのだが、若い学者連中の投稿論文を読んでいると、素材がいいのに、どうしてこんな稚拙な内容なのかと腹が立ち、送られてきた素材をもとに自分で論文を書いて発表までしてしまう。こんな人間だから彼は誰にも相手にされなくなる。

 主人公が歴史学者であるという違いはあるとはいえ、「笛壷」もこれと同工異曲の作品で、やはり、成り上がりの一匹狼の学者が登場する。頼れるものは自分の研究しかないものだから、そのぶんだけ、テーマがなかなか見つからないといっては「眼や耳から血が出るくらいに焦慮」し、研究が遅々として進まぬときは、「物を手当たりしだい放擲したことはしじゅうであり、真冬に一晩じゅう野原に打ち倒れて朝を迎えた」りもする(なんで野原!?)。濃い。ひたすら濃い。「通俗」といえば通俗だが、ぼくには面白かった。

 清張は、これらの作品以外にも、能力はあるがさまざまな要因から不遇の人生を歩まざるを得ないような人物を好んで作品に登場させている。

 表題作は、知的にはすぐれているが身体に障害を持つ青年が、森鴎外が小倉にいたときの日記が発見されていないところから、当時のゆかりの人びとを訪ねて鴎外の小倉時代を跡付けようと、母親と一緒に調査をする話である。志半ば彼は亡くなり、没後、小倉日記は発見されることになる。能力があるのに、それが生かされることがなかった哀しい顛末が語られる。

 「菊の枕」もそうだ。美貌で家柄も悪くないある一人の女性が主人公だ。ボンクラ亭主と結婚してしまった彼女は、自分はこんなうだつが上がらぬ人生のままでいいわけではないと考えた彼女は和歌に凝り始め、東京の有名な俳人に取り入ろうとするが、その取り入り方がストーカー的で、しかも回りの人間を排撃するものだったから、彼女はやがて孤立し、そして狂っていく。というあらすじを書けば一目瞭然、これは上の考古学者、歴史学者の物語の女性版である。

 松本清張という人は小学校出である。兄弟をたくさん抱え、40歳ぐらいまでは仕事を転々とした苦労人だ。上で取り上げた登場人物たちはみな清張の分身であろう。九州でくすぶりながら、これで終わってなるものかと思っていたはずの清張は、一方で、そういう成り上がりの悲劇と滑稽を仮借ないタッチで描く作家でもあったのである。

 しかし、これらの作品をいくつか読んで気づくのは、たしかにこれらの短篇には自罰的な欲望が働いていたことは間違いないものの、それはたとえば、中島敦が世の中に押しつぶされるようになって書き綴っていた自罰的な物語、たとえば、「文字禍」や「牛人」に見られるような、弱々しい自意識とはまったく無縁であるということだ。「断碑」を例にとるならば、たしかに件の考古学者は相当イヤな奴には違いないのである。しかし、そういうふうな描き方に読者の注意を向けさせながら、じつのところ、清張は、乙に澄ました権威的な学者たちや、人あたりがよく社交的ではあるかもしれないが、成り上がりの苦労人をそれとなくあしらう中央の人たちの閉鎖性に対する激しい敵意を描きこんでいるのである。なんとか這い上がろうとする、イヤな性格の人間の物語を読みながら、しかし、彼らを憎む気になれず、むしろ同情の思いすら抱いてしまうのは、この清張のスタンスゆえのことである。

 その意味で、松本清張のこれらの作品は、きわめて時代を反映している。清張がこれらの小説を書いたころ、日本にはまだ小学校しか出ていない、あるいは小学校しか行かせてもらえなかった清張のような人はけっこういたはずである。これ以降の、日本の高度経済成長、高学歴社会の到来とは、別の角度から言うならば、大量の成り上がり者を生産する時代の到来ということでもあった。既存の権威への反発と自罰的な欲望は、こうした時代への表と裏の反応だったようにも見えるのである。

 松本清張の小説が濃い、というのは、その小説の描いている世界が、いまの時代には「過剰に見える」ということである。考えてみればいい、いまは、学歴の欠如が問題であるよりは、学歴間の格差や、あるいは高学歴であってもワーキングプアになってしまうことが問題になる時代なのである。斎藤美奈子ストレプトマイシンの発見が肺病患者を描く『風立ちぬ』のような「病気小説」を消滅させ、高度経済成長が私小説などの「貧乏小説」のリアリティを奪ったと書いていたが(斎藤がそこで提唱したのが、あの有名な「妊娠小説」だった)、高度学歴社会は清張が描いた学歴コンプレックスの物語のリアリティをかなりの部分奪い取ったようにも思われる。

 しかし、それでは、清張の物語は現実的な根拠を失ってしまったのだろうか。ぼくはそうではない、と答えたい。

 アカデミズムの世界を外から眺めてきた経験から言うならば、学歴の問題はなくなってなどいない。それは序列の問題として歴然として残っているし、アメリカのディプロマ・ミルがニュースの話題になるのも、学歴というものが依然として強い強制力をもってその世界を覆っているからだろう。学歴を執拗に気にする人や、いわゆる一流大学と言われるものに対して必要以上に攻撃的になる人もたくさん見てきた。その一方で、清張が描いてみせた、親切で、温顔の、学界のボス的存在というものもいまもって健在である。学問上の業績には見るべきものはないが、「嫉妬、中傷のるつぼである学界」において、確執を調停し、出身校の後輩の面倒などもよくみる「親切な」学界の顔役。そういう人もいてくれるからこそ、世の中まるく収まるとはいうものの、「いい人」だからこそかえって、業績はあっても性格は悪い根性のひん曲がった人間によって妬まれ軽蔑され罵倒されるという事情は、清張が描いてみせたとおりである。

 経済的困窮の問題もしかり。貧困や、家庭環境の劣悪さといった問題がなくなったわけではけしてない。劣悪な環境にある家庭から脱出しようとする者が、兄弟や親たちを殺したくなるぐらい憎らしく、呪わしいものと見る物語は今もなくなってなどいない。清張は「父系の指」という小説で、みずからの血を呪う中年男が主人公の小説を書いている。これもまた清張の分身といってよいが、清張の血縁たちはどういう思いで、この小説を読んだだろうか。こんなことを書いてしまっていいのだろうか、と頭の片隅で思ったかもしれない。それでも、清張は覚悟をもって書いた。私小説作家の多くがそうであったように、私小説作家ではない清張にも、そういう「極道」としての覚悟というものがあったのだ。

 清張には雑草的な強さがある。コンプレックスを抱えながらもそれを飲み込んでバリバリと前へと進んでいくような力がある。清張が国民的な作家となっていったのは、たぶん、そのへんのバイタリティに由来するのだろう。


→紀伊國屋書店で購入