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『新京都学派』柴山 哲也(平凡社新書)

新京都学派

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「学問の世界のフィールドワーク」

 京都学派とは、西田幾多郎田辺元和辻哲郎など京都帝国大学の哲学科を中心にして集まった哲学者の学風として、昭和初期に生まれた呼称である。戦後になると、桑原武夫に率いられた京都大学人文研究所の学者たちがジャーナリズムで活躍したことから、京大人文研に連なる人材を「新京都学派」と呼ぶようになった。わたしに新京都学派という呼称の憶えがあるのは、一九六五年の小松左京の論文からだが、もっと前からいわれていたのかもしれない。

 いま一九六五年といったがわたしの大学四年生のときで、河野健二、上山春平、加藤秀俊井上清梅棹忠夫などの先生については、学内非常勤で教育学部や教養部で授業を聞いた。もっとも学内非常勤といっても教養課程や教育学部のことであったからかもしれない。同じ京大でも文学部には、京大人文研の、とくにジャーナリズムで活躍していた先生が教育学部ほど学内非常勤で出講していなかったのではなかったか。というのもわたしがあるとき文学部の先生に新京都学派と目される先生について、「おもしろいですね」と言ったときの反応が、「あれは新聞記者だよ」と吐き捨てるように言っていたことを憶えているからである。だから、アカデミズムの殿堂とおもっていた文学部の先生は、もしかすると、新京都学派などという呼称は元来の京都学派を汚すものとして気に入らなかったかもしれない。そんなことも思い出した。

 一九八七年には洛西の地に国際日本文化研究センターが開設されるが、この開設のリーダーが桑原武夫梅原猛の新京都学派であり、研究員には京大人文研所員や新京都学派の面々がなった。そこで本書は京大人文研と国際日本文化研究センターを新京都学派の牙城として描いている。新京都学派の代表的学者の研究を専門外の人にもわかりやすく説いていて読みやすい。

 新京都学派のルーツである桑原の学問については、「西欧、中国、日本の基層文化の三角形の三つの点を自在に移動しながら(日本の文明について)思考している」という指摘や桑原には「米国の影が薄い」という指摘になるほどとおもった。著作からの新京都学派の紹介だけではなく、著者は学芸部記者としてこれらの学者をインタビューしたことなどで親しくつきあってきた。そのときの話を「あるとき桑原はこんなことを言った」というように織り交ぜている。今西の家にいって、犬にほえられて立ち往生した話なども入っていてリアルである。その意味では、本書は著者のフィールドワークの成果でもある。京大人文研の大衆文化研究班が、岩手県北上山脈の村に出かけていって「農村における美人の調査」などをおこなったことなど、まだまだ硬いアカデミズムが強いときに画期的な研究がなされていたのだとあらためておもう。

 著者は観察者だけのフィルド・ワーカーではなく、ジャーナリストとして仕掛けも用意した。国際日本文化センターが開設のころ、アカデミズム史学者たちがこぞって反対していた。そこで著者は「朝日新聞」紙面に紙上討論会を設けた。ドナルド・キーン氏だけが賛成で、あとは反対の論陣をはった。反対者の中には鶴見俊輔もいた。鶴見はこう言って反対した。国際日本文化研究センターは、「(中曽根)首相に学者たちが直訴して実現した。私は好ましくないとおもう。・・日本人だけに日本が分かるという観念を断ち切ることが必要。(後略)」。しかし、この紙上論争によって国際日本文化研究センター設立をめぐる賛否の流れがかわったというから、著者の仕掛けの功績は大きかったということだろう。

 こうして新京都学派は時代の寵児になった。桑原や梅原、梅棹など類まれな研究組織指導者がおり、所員に才人を集めたことによるが、時代もまたこれに呼応していた。日本が豊かになり、欧米の研究の訓詁解釈学のような輸入学問や先進国の学者の「竹馬(に乗る)学問」にあきたらなくなっていた。まさに昭和戦前期の京都学派が時代の寵児になったのは、「近代の超克」のように日本の独自性やアイデンティティをもとめていたことによってだが、それと同じような状況ができたことによる。さらに、戦後、エリート文化でもなく大衆文化でもない「中間文化」(加藤秀俊)の厚みがまし、成熟しつつあったことをサポーターとしながら、また新京都学派の研究がそうした中間文化を成熟させていくという好循環のもとに花咲いた。新京都学派が凋落し、その欠を埋めるものがないのが、現在であろう。いまとなっては、こう問わざるをえない。いったいあの好循環はなぜ生まれ、何故終焉したのだろうか・・。


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