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『フルトヴェングラーを追って』平林直哉(青弓社)

フルトヴェングラーを追って

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フルトヴェングラーの真の音を求めて」

 著者の名前は、Grand Slamフルトヴェングラーの復刻盤CDで知っていたが、改めて本書(平林直哉著『フルトヴェングラーを追って』青弓社、2014年)を読んで、フルトヴェングラーのCDを観賞するときに留意すべきことをたくさん学んだ。そのなかでも特に要注意の点を三つにまとめてみよう。

 ①レコード業界ではLPから音を採ることを「板起こし」というが、モノラルLPの時代は各社、各レーベルがそれぞれ独自の周波数特性でLPをカッティングしており、統一した規格はなかった。世界的にほぼすべてのメーカーがRIAA方式という統一規格を採用するのは1960年代初頭から半ば頃だったという(同書、47ページ参照)。ということは、古いLPをRIAA方式で再生してもよい音が出るとは限らない(あるいは悪化するかもしれない)ということなのだ。

 フルトヴェングラーの録音は、言うまでもなく、SP時代からモノラルLP時代にまたがっているので、録音日時がいつでどんな規格を採用したかを特定しなければ、「板起こし」は成功しない。著者は、もし古いLPの音質について書いた文章があったら、「どの周波数特性で聴いたのか」がちゃんと記してあるか確かめてほしいとアドバイスしている(同書、50ページ)。フルトヴェングラーのLPやCDの音質が多様な理由の一端もここにあったのだ。なかには、ちゃんとしたレーベルのCDでも、原盤に編集を加えた混合盤で売られていたものもあったというから驚きである。

 ②私も学生時代からフルトヴェングラーのLPやCDをたくさん聴いてきたが、数年前手に入れたドイツ・アウディーテ盤(AU-21403)の音の良さには驚いたものである。著者によれば、これはRIAS放送局所蔵の音源を、「それまで一度も使用されたことがなかった76センチ/毎秒のテープのオリジナル・マスターを使用しての復刻盤」だったという(同書、112ページ)。以前出ていたCDは、実は、作業用のマスター(2トラック19センチ、あるいは4トラック19センチなのかは不明)からのダビングだったらしい。

 著者は、「アウディーテ盤の出現によって、ロココ、チェトラなどのレーベルから出ていたものは、個人的な思い出が染みついているといった感傷的な理由以外では、ほとんどもっている意味がなくなった」とさえ言っている(同書、112ページ)。

 音響のプロは言うことが細かい。ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲は、このアウディーテ盤が「完全版」であると断言する。なぜなら、このアウディーテ盤によって、冒頭の部分にトロンボーンコントラバスのフライングがあることが発覚したからである。フルトヴェングラーの指揮はわかりにくいので、アインザッツが揃っていないLPやCDはほかにもあるが、ドイツ・グラモフォンから出ているLPにその部分が消えているのは、RIAS放送の担当者がこのフライングをカットしたテープを提供したか、ドイツ・グラモフォンの技術者がその部分をカットしたか、どちらかではないかと推測される(同書、114ページ参照)。

 ③では、みずからもフルトヴェングラーの復刻盤CDを製作するようになった経緯はどんなものだったのか。私も持っているが、ベートーヴェンの英雄交響曲(演奏はウィーン・フィル、1944年12月19日録音)のCD(GS-2005)は素晴らしい音で甦っている。マニアの間では「ウラニアのエロイカ」として知られる、アメリカ・ウラニア盤(URLP-7095)からの復刻である。

 著者は吉井新太郎氏から借りてこのLPを聴いたらしいが、「軽くてややハイ上がりな音質ではあるが、既存の復刻盤にはない力強さと輝かしさがあった」という(同書、141ページ)。そこで、このLPから復刻してみようという気になった。再生周波数特性はNAB方式だったが、ピッチを決めるのに苦労したという。というのは、このLPは第1楽章と第2楽章が片面に詰め込まれていたので、裏の第3・4楽章と音質がかなり違って聴こえるからだ。そこで、ボーナス・トラックとして、ピッチ未調整の第1楽章だけを付けることによって、オリジナルのピッチが非常に高いことがわかるように配慮したという。

 例を挙げていけばきりがないので、詳しくは本書を参照してほしいが、プロの情熱には恐るべきものがある。

 著者が手がけた数々の復刻盤は、もちろん、情報を提供してくれたドイツの友人や、優れた解説を書いてくれたアメリカの研究家などの協力があってこそ製作できたものだが、本書は復刻の話ばかりでなく、フルトヴェングラーの墓参りを含むドイツ滞在記や、各国のフルトヴェングラー協会の活動など、フルトヴェングラーのファンには興味深い内容がたくさん含まれている。ご自分の所有しているフルトヴェングラーのLPやCDの音質に関して何か疑問点のある方々は、ぜひ本書を読んでみてほしい。

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