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『幼なごころ』ヴァレリー・ラルボー著、岩崎力訳(岩波書店)

幼なごころ

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「「ローズ・ルルダン」がいい!

 ぼくが高校生の頃は、まだ旺文社がたくさん文庫本を出していた。田村義也の装丁で内田百閒を出していたのもこの文庫だったし、海外文学のほうでも、ブラジルの作家ジョルジュ・アマード『老練なる船乗りたち』や、ウィリアム・フォークナーの『征服されざる人々』といった作品が出版されていて、せっせと買い集めては読んでいたものである。ただ、買い損ねてしまってあとになってとても後悔した本が1冊あった。フランスの小説家ヴァレリーラルボー(1881-1957)の『めばえ』である。


 そのラルボーの短篇集が、2005年、訳者が替わり題名も『幼なごころ』となって岩波文庫から出た。20年ほどのあいだ日本語で読めることを待ち続けていた本だった。

 10篇の短篇を収める。どの作品も、5,6歳から13,14歳ぐらいまでの、思春期前の少年少女たちが主人公の物語だ。ラルボーは子供のころ病弱で家に引きこもって過ごさざるを得なかったという。そのせいか、夢見がちの少年少女の話が多い。家庭教師が来ないといいなあと強く願いながら、部屋にあるマントルピースの大理石に「顔」(の模様)を発見し、その顔からいろいろな夢想をする少年の物語(「《顔》との一時間」)。公園で出会っただけの青年に恋をしたつもりになって性的な夢想までしてしまう少女の話(「十四歳のエリアーヌの肖像」)。描かれている世界はとても小さい。丁寧に読まないとその繊細な味わいを見逃してしまいそうな短篇ばかりだ。

 印象深いのは幼い時代の恋愛話である。たとえば、ラルボーの代表作とも言われる「包丁」。好きになった女の子のジュスティーヌの指に傷があることを知った裕福な家の少年エミールが、彼女の指の傷と同じ箇所をみずから包丁で切ってみようと思いたち、じっさいにそれを行動に移してみたお話である。好きな女の子と誕生月が同じだとか、好きな食べ物が一緒だったとかと同じように、少女の指と同じ場所に傷をつけたらそれだけその子に近づけるのではないかというような「幼なごころ」はたぶんどういう人にとっても思い当たるふしがあるはずだ。

 この本の冒頭に収められている「ローズ・ルルダン」にも、これと似た話が出てくる。この短篇は寄宿学校の「陰気で無口な」少女ローズ・ルルダンが同じ学校の少女に恋する物語である。その少女はプロシャからやってきたローザ・ケステルという名前の子なのだが、ローズの愛情の形はこんなふうに現れる。

そのころのことです。彼女に感じていた愛情が、大人のひとたちにはきっと滑稽としか思えない形をとってあらわれました。彼女とほとんど同じローズという名前だったことに、わたしは大きな誇りを感じていました。そしてもっと似るように、宿題を出すとき「ローザ・ルルダン」と署名しはじめたのです。
 

 「包丁」では指の傷の痛みの共有で表されていたものが、今度は名前の同一性というフェティシズムへと変奏されているわけだ。フェティッシュな欲望はさらにエスカレートする。

また別のとき、三時の長い休み時間を利用してローザ・ケステルたちの寝室に上がっていき、彼女の替えの上っ張りを着込んだこともありました。….そのときの細かいあれこれが全部、いまでも目に見えるようです。三つの高い窓も目に浮かびます。人けのないベッドの列を見張っている三人のきびしい白衣の婦人のようでした。小さな町の諦めきったような空が、彼女たちの空ろな目を通して入ってきて、ワックスをかけた寄木張りの床に、青みがかった水たまりのように広がっていました。
 

 寝室に忍び込んだローズの、背中が嘘寒くなるような緊張に満ちた場面が目に浮かぶようだ。してはいけないことをしているという後ろめたい思いは、三つの高い窓すらも自分を監視する白衣の婦人のようなものとして幻視させる。そして、そのあとの「諦めきったような空」とか、青い空が「青みがかった水たまりのように」床に広がっているとか、といった表現も非凡だ。こういう一節を読むと、つくづくラルボーは才能のある作家だなあと思う。

 こんなふうにして、(「薔薇」の名前を持つくせに)地味な女の子であるローズは熱烈にローザを愛するのだが、ある事件をきっかけにローザは転校し、ローズの(少なくても自分としては)心ひそかなつもりの恋愛は成就することなく終わりを告げる。

 さて、この「ローズ・ルルダン」、いまは大人になっている女性の思い出話という形の物語であるが、読み進むにつれ、なんとなく感情過多で芝居気たっぷりの言葉遣いに、時々おやと思う。たとえば、こんな一節だ。

わたしは、じっとこらえた涙の味が好きでした。仮面のような顔の裏側を通って、目から心臓に落ちていくように思えるあの涙の味が好きでした。宝物のようにそれを拾い集めていました。一日の旅の途中で出会った泉のようでした。
 

 こういうのを読むと、英文学畑のぼくは「おフランスしてるなあ」と思ってしまうのだが、それはともかく、この芝居気たっぷりの言葉遣いには理由があるのだ。この語り手はじつは有名な女優であることが最後のほうになって明らかにされるのだ。そのことが分かったとき、ローズがローザの上っ張りをこっそりと着込んでみるシーンで、「わたしが扮装をしたのはそれがはじめてでした」という、そこを読んでいるときは意味がわからなくて素通りするほかなかった表現が、ああそうだったのか、と合点がいくことになる。

 彼女は、女優になってから寄宿学校のあった町を訪ねたりもし、無口で陰気な少女であった自分が陽気になるきっかけとなったローザのことを懐かしく思い出す。彼女は、自分とローザについて、「ふたりの少女がおたがいの腰を抱きあい、腕を組み、手を握り合っている」と回想するのだが、そんな仲むつまじい関係がじっさいに存在したというふうにはぼくには読めなかった。むしろ、ローザはローズなんかには鼻もひっかけなかったようだし、彼女は寄宿学校の女性教師のほうに気持ちが向いていて、ローザが転校したのも女性教師との不適切な関係ゆえのことであったはずだ。ローザとの思い出はローズのなかで現実よりはたぶん少しだけ甘美なものになっている。

 それにもかかわらず、大人になったローズは思い入れたっぷりにみずからの少女時代を語るのだ。

幼なかったころの、なんの変哲もない古い日々の色や音や形! 小鳥のさえずりでいっぱいだった長い夜明け、そのあとに聞こえたわたしたちの鐘の孤独な響き。口にのこる味のように、一晩じゅう眠りの底で花開いていた中庭のアカシア。日曜日の朝、授業のない長い一日を自分の前に感じながら、ひたすら彼女のことを考えていればよかったひとときの、新品のワンピースの制服の真新しい匂い….

 この思い出の底にある気持ちの切実さに嘘はないのだろうが、あまりにロマンティックな表現ではないだろうか。繰り返すならば、ローズは女優なのだ。ローズは上のように思い出を語るとき、すでに女優になりきって、お芝居の台詞ででもあるかように語っているのだ。

 ラルボーは、少女時代の恋愛を思い出す一人の女性を描くにあたり、語り手を女優に仕立てた。そのことにより小説は独特の屈折を見せる。ぼくはこんなところにも「作家に愛された作家」と言われたラルボーの職人芸を見る。

 ところで、どうだろう、この「ローズ・ルルダン」を、女優さんかなんかの一人芝居で舞台に乗っけてくれないものだろうか。


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