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『黒い画集』松本清張(新潮文庫)

黒い画集

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天城越え

 先日、天城峠を訪れた。目的は中伊豆温泉巡りだったのだが、今にして思えば、一度は訪れてみたかった峠が、どこかで温泉道楽の行き先を定めていたのかもしれない。天城峠に惹かれたわけは、本書『黒い画集』に収められている「天城越え」にほかならない。「天城越え」は、いつも川端康成の「伊豆の踊子」と一対になって、久しくわたしの脳裏にあった。

 「天城越え」は、「伊豆の踊子」から35年後の昭和36年、『週刊朝日』に掲載されている。それは50歳の松本清張が60歳の川端康成に突きつけた挑戦状であった。文庫版でわずか40頁の小編であるが、そこに込められた怨念と構成には並々ならぬ殺傷力がある。

 挑戦状は冒頭からして意表を突く。「伊豆の踊子」を丸々3行引用した後で、「これは大正十五年に書かれたそうで、ちょうど、このころに私も天城を越えた」と放つ。重ねて、「違うのは、私が高等学校の学生でなく、十六歳の鍛冶屋の倅であり、この小説とは逆に下田街道から天城峠を歩いて、湯ヶ島を通り、修善寺に向かったのであった。そして朴歯の高下駄ではなく、裸足であった」と続く。旧制一高の高等遊民との差異を端的に示すことで、大胆な挑戦は幕を切って落とされる。

 下田―天城の行程の逆転を軸に、対比の妙は随所に据えられている。踊り子と酌婦の対比もさることながら、50銭銀貨一枚にも仕掛けがある。「伊豆の踊子」の学生は、茶屋の老婆に50銭のチップを残し、老婆の恐縮振りに胸打たれたかと思えば、次の瞬間には迷惑に感じる始末ときている。他方、「天城越え」の少年の有り金は16銭ポッキリで、酌婦にいたっては50銭銀貨2枚のために身を売って、それを渋った土工は殺害された上に豪雨に流される。

 川端康成の好きなトンネルは「伊豆の踊子」にも登場するが、トンネルを出ると「模型のような展望の裾の方に芸人達の姿が見えた」という具合で、学生は踊り子のいる世界にあっさりと追いついてしまう。当然のこと、『雪国』のトンネルをも射程に入れたであろう松本清張が、このトンネルを易々と通過するはずはなかった。題名ともなっている天城越えには、トンネルの向こう側で起きた事件の真実、少年の体験という現実、つまりは松本清張にとっての世界が集約されている。少年にとっては、「トンネルを通り抜けると、別な景色がひろがっていた。…私は、『他国』を感じた。…十六歳の私は、はじめて他国に足を踏み入れる恐怖を覚えた」となる。そうして、事件はトンネルの向こう側である「他国」で起きる。

 下田から天城峠を越えて湯ヶ島まで辿り着いた少年は、心細さのあまり故郷へ引き返す決心をする。そこに登場するのがハナで、誘われるままに裸足となった少年は、煽情的なハナとともに帰路に着く。ところが、妖惑される少年の前途を妨げるのが流しの土工であり、ハナに追い払われた少年はひとり天城峠へと向かうことになる。けれども、トンネルの手前で再び踵を返し、「心の空虚をうずめ」るべくしてハナのもとへ向かう。行きつ戻りつする少年の足跡には、逡巡や彷徨という情緒的な言葉では表せない切羽詰まった危惧と不安がある。順行と逆行の錯綜は、事件の真相が30数年の歳月を経て暴かれるという推理仕立てにも符合する。氷倉の足跡の謎が明かされた時、時効のない真実の重さが蘇る。

 トンネルの向こうの世界は、川端にとっては抒情に溢れた「模型のよう」な世界であり、松本にとっては情念の渦巻く現実なのだ。「伊豆の踊子」は美しく、「天城越え」は重い。どちらも幾度となく(テレビ)映画化されているが、前者に要求されるのは美術監督の器量であり、後者では役者の演技力が問われることとなる。それほどまでに、ふたつの原作が惹起する力のベクトルは違う。

 川端は美しいものを追い掛け、間遠に見つめ、拗(す)ねる踊り子を尻目にさっさと乗船して立ち去る。「今人に別れて来たんです」という最後の台詞は、私個人としては思い入れがあるものの、結局のところ、薄情なのだ。他方、厚情の松本は、邪淫に眩惑され、別離というきれい事の叶わぬ事態へと踏み込んでいく。文体は無骨で野暮ったく、最後の数行にはエディプス・コンプレックスの解説かと思わせる蛇足まである。けれども、「道がつづら折りになって」とはならない文体には、殺人という最も至近な対人距離を少年に委ね、生きることの現実を突きつけてくる念力がある。「鍛冶屋の倅」は、「孤児根性で歪んでいる」旧制一高の青年には越えられない一線を越え、当事者としての重さを担っていく。

 ところで、エディプス・コンプレックスとは言うものの、実のところ、少年の殺意の対象は父親ではなく、間男である。母親の姦通の記憶を記したうえで、「他国の恐ろしさを象徴」する土工への殺意は「自分の女が(土工に)奪われた」ことに起因するとまで、作者は主人公に告白させている。蛇足と思われる所以である。もっとも、『黒い画集』に収められた7作品中4作品が不倫を題材としているのは、偶然とは思われない。父親であれば避けられない葛藤を免れた敵を三角関係の一点に据え、欲情と怨念を犯罪という形で発火させる推理小説というジャンルは、松本清張がどこかで必要とした舞台装置だったのだろう。

 

 川端康成であれ三島由紀夫であれ、松本清張は攻撃対象に事欠かなかったらしい。松本清張には、これら「純文学」の作家陣にはない骨太の生命力がある。それが滾々(こんこん)と湧き出でては数多(あまた)の作品群が生み出されていった。小学校卒の学歴や職を遍歴せざるをえなかった生活苦が、旺盛な執筆の源泉と言われることも少なくない。復讐は確かに人間を突き動かす原動力となる。芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』を筆頭に、松本清張が「純文学」に在籍していた時期に書かれた短編の多くでは、社会的弱者の渾身の一念が描かれている。けれども、推理小説という構造を得ることで、松本清張は他に追随を許さない復讐譚の語り部となりえたのではなかろうか。


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