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『小銭をかぞえる』西村賢太著(文藝春秋)

小銭をかぞえる

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劇画時代の私小説

 「私小説界の救世主」などとも言われる西村賢太については、この「書評空間」でも阿部公彦氏がこの作家の本質を見事に切り取っているので、筆者が屋上屋を架す必要はないような気がした。ただ、西村については、芥川賞受賞候補になったさいに「書いていることはいつも同じ」という批判があった。先日も、ある学会でお目にかかったアメリカ文学者のW先生に「西村賢太はおもしろいですよ~」と申し上げたら、少し呆れたような顔をされてしまったので、どこがおもしろいか、お手紙を書くつもりでやってみようと思う。上に掲げた最新刊の『小銭をかぞえる』だけでなく、『暗渠の宿』『どうで死ぬ身の一踊り』(両方とも2006年)、『二度はゆけぬ町の地図』(2007年)の合計4冊を、ここに挙げた順番で一気読みしたこともあり、『小銭』についてのみの書評ではないことをお断りしておく。


①「エピソード1」

 W先生は西村賢太はお嫌いですか? 先日お目にかかったときには、呆れたような顔をされていましたが。わたしはあんまりおもしろいものですから4冊まとめて読んでしまいました。

 『スター・ウォーズ』という映画がありますね。時間的に先行するエピソードが「エピソード1」という形であとになって製作されるということがありますが、あれと同じような体験をしました。読んだ順番が良かったということがあるかもしれませんが、4冊まとめて読むと、「エピソード1」「エピソード2」を観るような愉しみがありました。たとえば、最新作の『小銭をかぞえる』のなかに「焼却炉行き赤ん坊」という中篇があって、そこに「馴染みのソープランド嬢に入れあげて最終的に百万円の大金を騙し取られた」という一節がちらりと出てくるのですが、その顛末については『暗渠の宿』収中の「けがれなき酒のへど」で詳しく語られていて、なるほど、そういう話だったのかとわかるし、表題作「暗渠の宿」に出てくる藤澤清造なる私小説作家の墓標のエピソードは、その墓標を手に入れる経緯を描いた「墓前生活」(『どうで死ぬ身の一踊り』)と一緒に読むと良いという具合です。

 西村賢太の4つの作品集は「スター・ウォーズ」みたいな続き物としても読める。同じような内容の作品が複数書かれているのではなくて、1つの続き物の作品があって、それがエピソード1、エピソード2に分かれていると考えたほうがいいように思いました。

② 「いつも同じ」の効用

 いま『スター・ウォーズ』の名前を出しました。私小説にハリウッド映画という取り合わせは我ながら「?」と思ってしまいますが、意外に、西村の作品の性格を浮き彫りにしているような気がしないでもありません。

 4冊の作品集をまとめて読んでみると、なんとなく、「水戸黄門」みたいな感じがある。たとえば、結論部だけをまとめてみると、「焼却炉行き赤ん坊」は同棲している女と喧嘩をして幕、「小銭をかぞえる」も女が最後に泣いて終わり。「けがれなき酒のへど」はゲロを吐いて終わり。「暗渠の宿」は現実としては幸せで終わりますが、幸せよりは不幸の予感がしっくり来るらしい西村は、やっぱりここでも、女をぶんなぐってしまうかもしれない予感を書き込んで結末としています。「墓前生活」はまあ普通の終わり方ですが、「どうで死ぬ身の一踊り」も「一夜」も女と喧嘩して終わり。なにがあっても、幸せそうなエピソードが書かれていても、いろいろな寄り道的なエピソードがあっても、「どうで最後は喧嘩と女のすすり泣き」という安心感(!)があるし、苦笑もしてしまう。お約束どおりに作品が終わるところが、「水戸黄門」的でもあるし、ハリウッド的とも言えるような気がします。

 西村賢太という男はほんと困ったやつです。DV男だし、風俗好きだし、女性に嫌われる条件はすべてそろっています。不潔きわまりない、という点も女性から疎まれるところでしょう。「潰走」(『二度とゆけぬ町の地図』)には、押入れに尿瓶代わりにしたコーヒー牛乳1リットルのパックが置いてあると書いてあったし(捨てろよ)、「腋臭風呂」という短篇は、表題からして、もうそれだけでウッとくる感じ。性格的にも相当問題あり。だいたい、こいつはセコイ。「焼却炉行き赤ん坊」を読むと、西村が凝っているという藤澤清造という作家の全集本を編集するために、同棲相手の女の実家から300万円を借り、それでも足りなくて印刷所へ渡す前金をさらに50万円女に無心する。ほんとうは30万で十分なのにビフテキなど食べてみたいと思って少し多めに借りたりするのがセコイ。ところが、何にいくら使ったかについて領収書も出しなさいと女に詰め寄られたために、西村は逆切れしてしまうんですね。それから、女にいっとき逃げられて、女の実家まで連れ戻しにいくシーンでは、食欲がないとかいいながら、女と入った喫茶店で、焼肉丼などを注文しちゃうようなのが西村賢太の本領なのです。ちなみに、このとき、女が注文するのがボンゴレ・ロッソ。この選択のアンバランスさに、2人の哀しいすれ違いの原点が見える気がします。

 ダメ男小説という分野がありますね。あれはダメ男がいつしかその純情無垢な精神のゆえに聖人のように見えてくるところにミソがあるわけですけど、西村は聖人にはならないし、なれないんです。ひどい男だな、としか思えない。それにもかかわらず、彼の書くダメ男ぶりからは目が離せないのが不思議です。たとえば、「どうで死ぬ身の一踊り」で、カツカレーを食べる西村を同棲相手がさして悪気もなく「豚みたいな食べっぷりね」と呟いたところから喧嘩になるシーンがあります。

 

……その何気ないはずの言葉に対してわき上がってくる激しい怒りをどうにも抑えきれなくなり、スプーンをカレー皿に放るとそれを持って台所へゆき、半分近く残っていたのを流し台の中に叩きつけてしまった。そして傍らのガスレンジの上の、カレーの鍋も、流しの中にぶちまける。熱い液体は四散し、私の服にも飛沫がかかった。

 無言でテーブルのところに戻ると、動きを止めて驚きの表情をあらわにしている女の皿も?み、それはそのまま台所内の壁めがけて投げつけた。 

 どうしたの、なぞ、泣き声を絞り出した女の髪を引っ?んで、椅子ごと床に倒し込む。

 「この馬鹿野郎、さっさと台所を掃除しろ!」(中略)

 「早く始末しねえと、壁紙がシミになるだろうがっ!」と叫ぶや、その、女の頭を足蹴にした。

 大仰に倒れ込む女に、余計と嗜虐感にも似た怒りを煽られ、続けて肩の辺や腿の付近に足蹴を食らわせたが、それがふいに女の横腹に深く入ったとき、女は、「ギャーッ」と云う凄まじい悲鳴を上げた。

 これ、まさにDVの現場ですけれど、わたしはここでなぜか笑ってしまったんです。「どうしたの、なぞ」の「なぞ」ってところで「クスリ」と笑ってしまったし、だいたい、このDVシーンは陰惨といえば陰惨だけど、あまりに過剰で、劇画的じゃないでしょうか。赤い血がブーッと出、足蹴りがグワシッとかバシッとかメリリとかいう擬音語と一緒に書かれているみたいな感じです。映画で言うと、大林宣彦監督の『ハウス』で首がポーンと飛んじゃうシーンにも似た「わざと大仰」な趣きがあって、ここはたしかに顔をしかめるべき箇所だと思いつつも、そのじつ、わたしの素朴な反応は「笑い」だったのです。

 西村賢太は「最後の私小説作家」みたいな言われ方をしているし、『暗渠の宿』のカヴァーなんかを見ると、いかにも昔風の私小説作家の本みたいな渋さをアピールしています。その点、角川書店の『二度はゆけぬ町の地図』の装丁たるや、なんでこんな装丁なの?というような、青色の、バカっぽい装丁です。でも、編集部がつけたであろう「これが平成最上のエンタメ私小説だ。」というキャッチコピーも含めて、わたしは西村の資質はこちらのほうに近いと思っています。

西村賢太の未来予測

 こんなダメ男が、自分の生の最後の拠り所にしているのが昭和初期の作家、藤澤清造です。読む作品、読む作品、西村はなんどもこの藤澤清造について触れていますし、奥付けのところに入っている著者紹介欄にはかならず「『藤澤清造全集』(全五巻、別巻二)を個人編集」と書いてあります。彼の人生は藤澤清造のまわりを回っているといっても過言ではありません。この藤澤って人、よく知らないんですが、西村の小説を読んだせいで、とにかくそういう作家がいたことについては、インプットされました。そうだとすると、西村の小説というのは、すべてこれ、「藤澤清造プロモーション小説」だったのではないかと思うほどです。

 彼の小説は今そこそこ注目を集めていますから、いずれ、めでたくお金が工面でき、藤澤清造全集が発刊される日が来ることでしょう。でも、事前PRは成功しているとしても、ほんとうに、この全集、出るのかしら。「腋臭風呂」を読むと、文芸誌に作品が掲載されて「少しはまとまった額」の原稿料が振り込まれたと書いてあります。ところが!「全集作成の支払いにあてるべく、百円たりとも使うまい、と誓った」のだが、「急激に唯物的な欲求解消への思いにどうにも抗えなくなって」、「一度だけ、女を買うことにした」とあるからです。逆にいえば、私小説作家・西村賢太の未来は限りなく明るい、ということではあるのですが。

 4冊あるうちで、どれがいちばんおススメかというと、最新作の『小銭をかぞえる』でしょうか。とくに「焼却炉行き赤ん坊」は、キラー・ニシムラの暴虐ぶりが芸の域に達しています。キャッチフレーズ風にいったら、劇画「ザ・私小説家」の「ぬいぐるみ殺害」の巻。はっきりいって、それはもう、ひどい、ひどいお話です。笑うことができるか、それとも西村の暴虐に憤慨するか。西村の好き嫌いの試金石として、この作品はうってつけです。


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