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『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著、大浦康介訳(筑摩書房)

読んでいない本について堂々と語る方法

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<流><忘>○」

 原題は「読んでいない本についていかに語るか」。筑摩書房(あるいは訳者?)はこの原題に「堂々と」という副詞を付け加えた。3文字の追加が劇的な効果を生んでいる。編集者も自信があったのだろう、表紙カヴァーの「堂々と」の文字だけ赤くなっている。たしかに、うまい。じっさい、筆者もまたこの題名につられて買ってしまった。


 帯もうまい----という言い方はしかし、すこし変かもしれなくて、というのは、裏表紙にかかっている帯に印刷されているのは本書の目次そのままで、目次を帯の文章に使うのは出版界ではべつに珍しいことではないからだ。しかし、この本にかぎって、帯に目次をそのまま持ってきたのには意味がある。

I 未読の諸段階

 1 ぜんぜん読んだことのない本

 2 ざっと読んだことがある本

 3 人から聞いたことがある本

 4 読んだことはあるが忘れてしまった本

(中略)

III  心がまえ
 1 気後れしない
 2 自分の考えを押しつける
 3 本をでっち上げる
 4 自分自身について語る

 この帯は立派なキャッチコピーになっているうえ、この帯を読むだけで、もう読んだ気になってしまう。「読んでいない本について堂々と語る」ための本の帯として、これほど親切な内容紹介もないだろう。

  「読んだ」ということにもいろいろなレベルがあるように(何度も読んだ、ざっと読んだ、精読した、というように)、バイヤールは、「読んだことがない」ということにもいろんなレベルがあるのだという。なるほど、私たちは「読んだことがない」と一口に言うけれども、ぜんぜん読んだことがない本もあれば、途中で挫折してしまった本もある。多くの人が論ずるものだから、もうすっかり自分でも読んだ気になっている水村美苗の『日本語が滅びるとき』のような本もある。また、筆者は、英米文学についての研究論文を読む機会が多いが、論じられている作品はたしかに昔読んだはずなのに、その具体的なテキストの細部を記憶していないことに唖然とすることがある。そういう場合、その本を自分が「読んだ」と言っていいのかどうかはなはだ不安になる。

 「読んだ」「読んでいない」というのは、だから、はっきりと二分されるものではない。それに、そもそも本というものは、ある均質な読者空間をめがけて生産されるものだから、題名や著者名などから内容はおおよそ推察できるものだし、広告や他人からの噂話などを耳にしていれば、読んでいない本について公然と語ることはだれにもできることなのである。さきに引用した帯だけをもとに書評を書くことだって十分可能だろう。私たち編集者は、読んでいない本について、あれはいい、これはダメだと恥ずかしげもなく断言したりする。『ベオウルフ』からヴァージニア・ウルフまでの主要な英文学作品をすべて読んでいるわけでもないのに、英文学史を講じる英文学者もいる。バイヤールによれば、気後れなどはまったく必要はないことになる。

  「本について語る」こととはつまり批評のことである。しかし、本について語ることで、私たちはいったい何を語っているのか。小林秀雄はたしか「批評とは己の夢を(懐疑的に)語ることである」と書いたのではなかったのか。だとするならば、バイヤールの言うように、本について語りながら、「自分の考えを押しつけ」たり「自分自身について語ったり」するのも全く「アリ」である。部分的にしか読んでいない本ならば、その部分についてのみ熱く語るだけでも、「あの人はそんなところに着目したのか」と感心してもらえるかもしれない。あるいは、まったく読んでいなくても、その本をなぜ手にとったか、どういうところに惹かれたのかを語るだけでも、本について語ったことになる。

 本書には、「本を読んでいない」ことについて言及する小説作品(英文学者にはおなじみのデイヴィッド・ロッジの紹介する「ヒューミリエーション・ゲーム」もむろん出てくる)や作家たちのエピソードが紹介されていて(夏目漱石の『我輩は猫である』やら『草枕』なども引用されている)、本を読んでもいないのに堂々とコメントする行為が普遍的であることも例証される。プルーストを1巻しか読んでいなかったヴァレリーなど、常日頃から本をほとんど読まないことを口外して憚らなかったし、むしろ「自分が本を読まないことをひとつの理論にまで仕立て上げた」という。なるほど、バイヤールが指摘するように、ヴァレリーが作り出したヒーローであるテスト氏のアパートには本が置いてなかった。

 バイヤールはさらに議論を進めて、「読んでいなくても語ることの効用」があるのだと説く。本は読めば読むほど、文章は読むものであって書くものではないという意識を読者に植え付け、読者を身動きのとれない状態にしてしまうという。そういう一面があることはたしかに事実で、本は読めば読むほど自分の無知と無能力を思い知らされることがしばしばだ。読書で忙しくて論文を生産しない、あるいは生産できない学者さんはいくらでもいる。

 しかし、「読んでいない本について語ること」は正真正銘の「創造活動」であって、学生たちに学校で本の読み方や本について語る方法について教えるのに、読んでいない本について語る方法を教えないのは奇妙なことではないかとバイヤールが真面目に語っているのはどうだろうか。筆者はこの本を一種の洒落の本だと思って読み始めたのだが、どうやらバイヤールはかなり本気で「非読」の可能性を信じているようなのだ。この本は、見かけ以上に、まじめな読書論、読者論なのである。

 最近は下は小学校から上は研究者にいたるまで何かについて意見をまとめて発表するのが流行であり義務である。小学校では、本を宣伝するための「帯」を書かせる活動をやらせているし、研究者はpublishすることがなによりも大事な仕事になっている。「創造」が大事なのだ。しかし、そんな「創造」よりも、知識を無駄にため込んでいるような「偉大なる暗闇」的な存在のほうが、筆者には、「発信型」(なんという無残な言葉だろう)の時代にはかえって尊いような気がしてしまう。バイヤールが創造的であることは大事なことだ、と大真面目に言っているのを読むと、みんなが他人の文章をちゃんと読まずにどんどん「創造」しちゃうから、つまらない読み物が増えてしまうんじゃないんですか、とこちらも真面目に反応してしまう。

 本を読んでいないといけませんよ、というような教養主義的読書観に反発する気持ちはわからないでもないが、そんなに振り子を逆のほうに振らなくてもいいのに、と思う。むしろ、この本で楽しいのは、たとえば、読んでいない本について作者自身の前でコメントする羽目になったら、細部に入らず、とにかく褒めることが大事である、なぜならば「作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現でいってもらうことである」というようなコメントをしているところで、このぐらいの肩の力の抜け方というのか、エスプリに満ちた書きぶりのほうが、読者がこの本の題名から想像するものに近いのではないだろうか。

 バイヤールはこの本で固有名詞を挙げている本について、<未>(ぜんぜん読んだことがない本)、<流>(ざっと読んだことがある本)、<聞>(人から聞いたことがある本>、<忘>(読んだが忘れてしまった本)という4つの記号を付したうえで、とても良いと思った本に◎、良いと思った本に○、ダメな本に×、ぜんぜんダメな本に××の注をつけている。ジョイスの『ユリシーズ』に「<聞>◎」、アリストテレスの『詩学』に「<未>×」とあるのはたいへん納得のゆく評価である。この記号を丁寧に見ていくと、じっさいには存在しない小説なのに、「<未>◎」などという記号がついているのを発見することができる。読んでいなくても面白いとか面白くないとかコメントすることができる、というバイヤールの本書の主張がこんなところにも出ていて、くすりと笑った。ちなみに、本書をじっさいに読むまでの筆者の評価も「<未>◎」。


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