『記号の知/メディアの知――日常生活批判のためのレッスン』石田英敬(東京大学出版)
●「セミオ・リテラシーへ向けて ――記号のテクノロジーと意味のエコロジー」
石田英敬は、「社会における記号の生活」を研究する学としての「一般記号学」の遺産を相続しながら――それは二〇世紀的な知の体系そのもののあり方を問う身振りにほかならない――、現代の私たちの日常生活を批判的に読解することによって、その仮説や公準、成立条件を組み立てなおそうと試みる。この試みは、「記号の問い」と「技術の問い」と「社会の問い」の結節する場において複層的に展開されるとともに、具体的現象の綿密な分析を通して多角的に構築される(現代性の分析による批判理論の再構築)。特に、本書において、石田は、この三つの問いの重合点に「メディアの問い」の位相を位置づけ、メディア化した情報社会における意味の問題を中心的な主題として引き受ける。ここで、メディアとは「物質+記号」を意味し、その物理的基盤と技術的媒介を通して、人間にとっての意味を社会的かつ文化的に成立させるものを指す。石田は、記号の知とメディアの知とを突き合わせ接続させることで、現代の日常生活における人間の複合的で多次元的な意味経験を問おうとするのである。これは、記号と技術が結びつき(記号のテクノロジー)、そのことによって社会の意味環境(意味のエコロジー)がたえず変動している世界――そこではまた知も変容を要請される――において、必要不可欠な認識にほかならない。
石田の考察は、11のレッスンという形式をとっている。それはまず、現代の日常生活を取り囲むモノに関する存在論的考察、精神分析学的考察、そして一般記号学的考察をめぐって開始される。次いで、ソシュールの記号学と、パースの記号論の概説がクレーの絵画を辿りつつ示され、それがメディア理論、コミュニケーション理論へ接続される。そして、それらを踏まえてまず、建築を手がかりに空間と場所の意味作用が分析され、また、アラーキーの写真集を手がかりに都市の意味作用が考察される。あるいは、広告を手がかりに欲望と無意識の構造が解明され、また、森村泰昌の芸術をめぐって身体とイメージが、監獄や学校をめぐって身体と権力が考察される。さらに、スポーツやスペクタクルを通して国民国家による象徴政治が分析され、また、テレビ・ニュースの意味生成の分析によって現代性の在り方が問われる。そして、ヴァーチャルなものが問題にされ、サイバースペースにおけるコミュニケーションやポスト・ヒューマンの条件が考察される。
本書は、これらのトピックの記号論的分析によって、現代の日常生活を形成する意味の問題系の全体像を巧みに描き出し、私たちを取り囲む意味環境の複雑な位相を明らかにする。また、石田は、多岐にわたる哲学者や思想家――ハイデガー、フロイト、ヘーゲル、ラカン、フーコー、ドゥルーズなど――を批判的に導入しながら、記号の知とメディアの知の全体的な地図を軽やかに描き出すことで、現状の人文知の有用性と限界を明示する(この地図は、それぞれの理論概念の理解に寄与するものである)。
このように、本書においては、さまざまな現象が、さまざまな理論に言及しされつつ、一般記号学を基軸にして批判的に読解されている。そこにおいて明らかにされる日常生活とは、記号と化したモノの様態、欲望のメカニズムに取り込まれた身体、記号空間として組み立てられた建築や都市(そのなかを往来する人々の意味活動)、網の目のように働きかける権力の実相、国家象徴による人々の意識の管理、記号支配への芸術実践による抵抗などである。本書は、そのひとつひとつの批判と分析を通して、具体的現象から意味経験の一般性の地平を問うているといえよう。しかしながら、とりわけ、本書における石田の論考は、広範な思想史的かつ理論的背景を基盤にした「テレビ記号論」と「情報記号論」の構築として特徴づけられるものでもあるだろう。一方で「テレビ記号論」は、視聴覚的な技術的文字による人間の意識や記憶のモジュレーションとコントロールを、他方で「情報記号論」は、情報化されユビキタス化された人間以後の計算論的世界の経験や表象と思考の在り方を、それぞれの「記号‐技術‐社会的配置」において根本的に問うものである(両者の問いは補完的な問いである)。
したがって、石田の問いは、テレビやITといった記号テクノロジーの認識論的かつ技術論的な問いとして提起されることになる。その問いが意味するのは、テレビやITが社会に深く浸透し、意味環境の成立条件を技術的に書き換えつつある「記号論化した世界」において、それらを分析的に批判する一般記号学の可能性をおし拡げることにほかならない。テレビやITを通して世界が組織化され、人口の生が実時間で管理されるなか、石田は、それを内在的に批判する手がかりを本書において提示しようと試みているのだ。それは、ベルナール・スティグレールによる記憶産業批判――クリティカル・デバイスによるクリティカル・スペースの創出――と明らかに共振するものである。文化産業批判、日常生活批判の現在はここにあるといえよう。なお、テレビ記号論と情報記号論の試みは、すでに『テレビジョン解体』(慶応義塾大学出版会)や『知のデジタル・シフト』(弘文堂)などにおいてそれぞれ展開されている。
本書は「啓蒙の書物」として企図されている。石田によれば、啓蒙とは「リテラシー」に寄与することを意味する。本書において提示されるリテラシーは、現代の日常生活における記号や意味とは何か、そこにいかなるメカニズムが働き、いかなる効果が生まれるのかを根本的に問い、批判的に思考する「セミオ・リテラシー(意味批判力)」である。それは、メディア・テクノロジーや記号テクノロジーによって私たちの意味活動が書き換えられ、意味環境全体にさまざまな影響が及ぼされているなか、意味のエコロジーをクリティカルに問い、新たな意味実践の主体を生み出そうと企てることにほかならない。本書は、知の批判的実践を基盤として、その創造的契機を見出すきっかけとなるものである。石田が指摘するように、セミオ・リテラシーのセンスを身につけること、それが今日ほど求められている時代はないのである。
・関連文献
Ferdinand de Saussure, Cours de linguistique générale, édition établie par Ch. Bally, Payot, 1916.(『一般言語学講義』、小林英夫訳、岩波書店、1972年)
Charles Sanders Peirce, Writings of Charles S. Peirce: a chronological edition, general editor: Max H. Fisch, associate editor: Christian J. W. Kloesel, Indiana University Press, 1982-2000.
石田英敬『現代思想の地平』、放送大学教育振興会、2005年。
・目次
1 モノについてのレッスン
1 物の生活/記号の生活
2 三つの絵画作品と知の言説
3 記号の表層の露呈
2 記号と意味についてのレッスンⅰ
1 記号の学
2 記号の構造と論理
3 方法としての記号
3 記号と意味についてのレッスンⅱ
1 プロセスとしての記号
2 記号の認知
3 記号の解釈
4 メディアとコミュニケーションについてのレッスン
1 メディアとは何か
2 コミュニケーションとは何か
3 メディアの文明圏
5 〈ここ〉についてのレッスン
1 意味を帯びた空間・場所
2 記号と構築
3 意味空間の成立条件を問う
6 都市についてのレッスン
1 都市の意味を問う
2 東京という物語
3 意味空間のエコロジー
7 欲望についてのレッスン
1 欲望と意味
2 広告の仕事
3 資本主義の白日夢ともう一つの時間性
8 身体についてのレッスン
1 イメージとしての身体
2 メディア社会と身体イメージ
3 権力と身体
4 私たちの身体のいま
9 象徴政治についてのレッスン
1 記号と共同体
2 国民国家と象徴
3 スペクタクル社会
10 〈いま〉についてのレッスン
1 今代/Modernity
2 テレビを考える
3 ニュースな世界
4 現代の天使たち:媒介される世界
11 ヴァーチャルについてのレッスン
1 ヴァーチャル・リアリティ
2 サイバースペース
3 ポスト・ヒューマンの条件
展望 セミオ・リテラシーのために