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『荒地の恋』ねじめ正一(文藝春秋)

荒地の恋

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「詩的、から遠く離れて」

「口コミ読み」は読書の大きな楽しみである。公の場を自覚した「よそ行き」の書評も参考になるが、知り合いが「こんなものがありましてね」というのを、「どれどれ」と手にとるときには、その本に感動したり失望したりした知り合いの読書体験が、頁上にうっすらと重なって見える。「そうか、きっとこういう部分に興奮したのだな」などと、おそらくは誤った推測などしながら、行間というよりは「行外」を読んでしまう。


荒地の恋』は出版当初から筆者の身近でも話題になっていたが、このたび、北烏山に住む知人の翻訳家が大絶賛していたので、読む気になった。終始涙ぐみながら読んだとのこと。そこまで言われると、せめてのぞいてみようかなという気になる。この北烏山の翻訳家さんはたいへんエネルギッシュというか、フィジカルというか、波瀾万丈の人生を送ってこられた方で、洗濯機を持って家出したことまであるのだが、どうやら『荒地の恋』も家出の話らしい。

 一応小説。でも、評伝としても読める。記録としても読める。詩論にもなっている。文学史でもある。いずれにしても、もし読むのだったら、とにかく最後まで読んで欲しい作品である(ただし、最後だけ、というのはナシ)。途中が気に入らなくても、登場人物に不満でも、200頁をすぎたあたりから、いろんなことが、まるで人生の本当の果実に舌が届くような気味でわかってくる。それが甘いのか、酸っぱいのか、苦いのか、読む人次第だろうが、筆者は何より「北烏山の翻訳家はどう思ったのだろう?」と考えながら読んだ。

 主人公は北村太郎。荒地派の詩人である。50代の半ばにさしかかり定年も間近。妻と娘、息子がいる。一戸建てもある。人生の難所を乗り越え、静かに充実した日を送るはずの年頃とも見える。長年書きためた詩作品を全詩集としてまとめることにもなった。しかし、その作品の数のあまりの少なさに「たったこれだけかあ」と思わず声を発した友人がいた。そのセリフを不吉な兆しとして響かせながら、物語は始まる。

 こともあろうに北村は、中学時代以来の親友田村隆一の妻と関係を持つのである。明子は田村の四番目の妻。女出入りの激しい田村に似合う、毒が効いて癇の強い女性で、それだけにひねりの効いた魅力がある。明子は田村との生活にくたびれていた。そして原稿の受け渡しをきっかけに、押しかけるように話しをしに来るようになった明子から、いつしか北村は離れられなくなっていく。

 読み始めてまず感動するのは、詩人たちを主役にするはずの作品世界の、驚くべき散文性である。これは著書ねじめ正一の最大の功績だと思う。何しろ冒頭のシーンは、鮎川と北村がゴルフから帰ってくるところなのである。いくら何でもゴルフとは!せめてテニスにしろよ!と北烏山の翻訳家は思ったかなあ、などと邪推する。ゴルフほど、50過ぎの一戸建て家族持ち男性にぴったりというか、「オヤジ的」なものはないだろう。しかも、新聞社の校閲部に所属して地味な生活を送り、酒も呑めない北村が、若い頃から性欲はそれなりに強かったという。玄人の女性の世話になったのも早い。14歳ではじめて詩を書いてから全詩集を出すまでに、個別の詩集として出したのはたったの二冊。詩を書いているときよりも、ただふつうに生き、ふつうに通勤し、ふつうに性欲にかられ、ふつうにゴルフをする時間の方がはるかに長かった。そこにはごく人並みの鬱屈があり、退屈があり、平穏があった。こう考えると、定年を前にして「たったこれだけかあ」の声を聞きながら思わず道を踏み外し、妻子を捨てて男癖の悪い女の元に走る北村の姿が、哀しいほど類型的に見えてくる。

 しかし読み進めるほどに、およそ詩的ということとはかけはなれて見えるこの散文的な世界の何とも言えない味が、じわじわとしみ出してくる。無頼派詩人を気取りながらも、金に汚く計算高い田村隆一。離婚しよう、と提案すると、急に弱気になって「パパ。私何か悪いことした」と怯える妻に、「なあんだ、遠慮するんじゃなかった」とかえって安心する北村。はじめから無理のあった明子との同棲はやがて経済的困窮を引き起こし交通費にも困るほどになるが、北村は恥ずかしくて貯金のある明子に「金貸してくれ」の一言が言えなかったりする。その明子の貯金は、株で儲けたものだ。

 詩人などというが、北村太郎はごく平凡な人生を生き、そのときどきにたまたま詩を書いた人なのだ。何の神聖さも、神秘も、謎もない。だいたい、明子とのことがあって、急に詩が書けてしまうあたりが、あまりにわかりやすすぎないか。

暮れになり、貯金通帳に記された数字のあまりの小ささに気づいて、北村は呆然とした。呆然としたが、こういうときいつも襲ってくる恐怖はなぜか感じなかった。鮎川は死んだ。俺もいつか死んでもいいのだ、と思った。家を出て明子と暮らすようになって詩がどっと書けた時期があり、今また詩が遠のいている。北村にとって詩とは人生のうねりの共鳴器であって、詩だけが、あるいは人生だけが唄うことはないのだ。

 おそらく著者のねじめ正一は、かなり注意深く「詩的なもの」を後景に退けている。実は北村には前妻があった。妻と息子とを海の事故で亡くしているのだ。しかし、この悲劇に話を収束させたなら、この作品はいたずらに美化されただけの本当の意味で類型的なストーリーに見えてしまっただろう。当然北村はこの事件のことを引きずっているが、ときには忘れることもある。ときには思い出す。新しい女が現れれば夢中にもなる。そういう現実の果てに死期が迫る、そこへ「あなた、わたしを生きなかったわね――どこかから死んだ最初の妻の明子の声が聞こえる」というような一行がふっとあると、読んでいて怖ろしいような気分になる。(ですよね?北烏山さん)

 やはり、最後の100頁がいい。北村の散文的世界が、きわどく詩的な恍惚を避けながらも、抜き差しならぬ領域に達するのだ。

 たとえば鮎川の死を知らされた北村は、なぜか腕時計を見る。

 あまりに不意打ちすぎて、北村は諒の言葉がすぐには理解できなかった。

「諒くん、それ本当かい」

 とっさに腕時計を見た。なぜだかわからないが時刻を確かめねばと思ったのだ。安物のカレンダー付き腕時計は十月十八日午前九時十五分を指していて、コツコツ動く秒針が北村の見ているあいだに12の数字の上を通り過ぎていった。(中略)とすると、まだ十一時間しかたってないじゃないか。北村は腕時計を眺める。正確には、ええと、十一時間三五分だ…いや待てよ。午後十時四十分というのは病院に着いて医者が確認した時間にすぎないから、倒れた時間から考えると、ほぼ十二時間だ。鮎川が死んでから十二時間。俺は何も知らずに、鮎川がいない時間を十二時間も過ごしていたわけだ。

校閲部にいて、辞書を読むのが趣味になってしまった北村が、数字に示す無意味とも思えるこだわり。それは誰かが死ぬと、まずは死亡広告の心配をするという性分にも通ずる、役には立たないけれどまさに「生」の匂いのする仕草なのである。不治の病を得た北村がそのことを知らずに銭湯の脱衣場で観察する、自身の「老人性のシミ」の浮き出た裸体のシーンももちろん凄惨。だが、筆者が何と言っても感動したのは、北村が明子と別れた後、最後の愛人として付き合った阿子の視点で書かれた一節である。

 神楽坂の出版クラブというところで北村さんのお別れ会がある。十一月六日は金曜日で、休みを取ろうと思えば取れる日だった。私は行くことにした。受付で会費を払った。順番待ちの人が多くて驚いた。
これ、どこがいいのか。「受付で会費を払った」というところである。六十になり骨髄腫に冒されながらもなお性欲を失わなかった北村が、会えばホテルに直行するというやり方で付き合いつづけた秘密の愛人が若い阿子であった。明子との関係が文壇ゴシップの格好のタネとなったのとは対照的に、阿子とのことはほとんど誰にも知られず、しかし、北村の「生」的な部分を支えつづけた。その阿子は当然ながら、お別れの会の主催者になることはできない。招待状なども届かず、場所や時間も公式な告知で知ったのだろう。だから受付でも名前を書き、会費も払わなければならない。そして北村の弟に「私、北村さんの恋人だったんです」などと自分から名乗っていくことにもなる。北村の弟はその言葉をどこまでまじめにとったのか。阿子はこの会から早々に引き上げると、「せっかくの休みだから」と、何も知らぬ夫と娘と外食をしに行くのである。

 こうした人物たちは、実人生では主役というヒロイックな座から下りることでこそ、作品世界の主役たりえているのかもしれない。実人生で彼らにかわって主役となるのは、どうしたって別の人間だ。実人生で主役としてふるまってしまうことで、この作品では脇役扱いにならざるをえなかった人。のっけから翻訳をめぐる汚い操作や金の取り方に驚かされるが、何と言ってもすべての人物たちのからみあいを引き起こし、悲劇や喜劇を生んでいるのは、上手に後景に追いやられた田村隆一ではないかと思う。明子がまるで魔物でも振り払うように、田村は寂しがり屋なだけだ、始終人をまわりにはべらせて人気者でいないと気が済まないのだと繰り返すのも、結局はそのオーラに太刀打ちできないからではなかろうか。その人間としての皮相さやだらしなさ、計算高さをあげつらって解毒しつづけなければならないほど、田村隆一という人間にはたいへんたちの悪い引力があったのかとつくづく、しみじみ思う。これは詩がうまいのどうのということとは、たぶん別の話である。世の中って、たしかにそういう風にできてますよね、北烏山さん。


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