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『後ろから読むエドガー・アラン・ポー-反動とカラクリの文学』野口啓子(彩流社)

後ろから読むエドガー・アラン・ポー

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宇宙が巨大なマガザンであるかもしれない夢

アメリカ文学をその狭い守備範囲でやり続けている人たちにとっては大きな衝撃であったかと思われる鷲津浩子氏の『時の娘たち』は、女史自身言うように「『ユリイカ』を西洋知識史の流れのなかで読み直そうという試み」であった。ストレートにE.A.ポーの奇怪な宇宙論を論じたその「暗合/号する宇宙」は、このテーマで書くならジョン・アーウィン“American Hieroglyphics”(『アメリカ聖刻文字』)、ショーン・ローゼンハイム“The Cryptographic Imagination”(『暗号的想像力』)のニ著をベースにせざるを得まいと岡目八目的に感じるところにズバッときて、なかなかの使い手と思わせる。こういう大型の仕事の後でポー論を綴るのはしんどいだろうなと、アメリカ文学で食っていくはずの人たちに少しく同情した。鷲津氏は新知見が兎角はちきれそうという感じで、批評文体としては生(き)というか、も少し洗練と重複の整理が必要かと思うが、その点では<大>巽孝之『E.A.ポウを読む』が1995年時点で我が国のポー研究スタイルの頂点を見ている。

その後のポー研究はどうなっているのだろう。大きな呪縛を引き受けての仕事にならざるを得ないはずだ。なかなか突破作がないところで注目株に見えるのが野口啓子氏の『ポーと雑誌文学』(山口ヨシ子との共編著)である。『後ろから読むエドガー・アラン・ポー』はその野口氏がポーの文業全体に改めて触れた新刊というので読んでみた。タイトルの「後ろから読む」が良い(「反動とカラクリの文学」というサブタイトルは艶消し)。ポーのキャリアの最後(“Eureka”ユリイカ』)から全文業を逆照射しようという主旨である。

最初に『ユリイカ』を論じる。一種ビッグ・バンに似たコズモロジーを繰り広げるポーの『ユリイカ』についてわりと一般的な読み方を、まず紹介する。次に楽園(庭園)ものにおける万物合一への憧憬、長篇“The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket and Related Tales”(邦訳『ゴードン・ピムの物語』)における反転のテーマ、美女蘇生物語における精神と肉体の確執、推理小説における都市と群集へのアンビヴァレンス、そして眼、見ることへのポーの反エマソン的な形での強烈な関心という順番で、ポーの文業がほぼ全体的に取り上げられていく。そして、それぞれ浮かび上がったサブテーマが「後ろ」に控える『ユリイカ』中に全てまとめて入っていることを最後に見る。

ほら「後ろから」見ると面白いという章立てなのだが、先行作を最後作が総合してみせたという構造でもあり、別に「前から読む」ポーでちっとも構わないのがおかしい。たとえば推理小説とは断片的な情報を基に「過去の始源」に遡及するジャンルであるというのは良いとしても、ポーについては、拡散した宇宙が始源の「単一状態」に戻る夢を描いた『ユリイカ』から即ち「後ろから読」んでわかってくるというものでもないだろう。むしろ推理小説をつくりだす拡散から糾合へという構造が最後作に「前から」入っていったと、ごく自然に読んで不都合があるのか。

個々の作品論は陳腐だ。著者が作品に対峙して考えたことを書くのは当然かつ少しもおかしいことではないが、少し程度の良いポー入門者が喜ぶだけのことで、2008年の今、改めてことごとしく読むほどの内容ではない。野口氏がどうこうというのでなく、いかにも知的好奇心をかき立てるポーという相手について書かれ得ることはほぼ書き尽くされている感があるということだ。ポー注釈産業は盛況だ。

にも関わらずこの本を取り上げたのは、マガジニスト・ポーという、野口氏の個性的かつ貴重な視点の故である。それは全巻棹尾の「アメリカの叙事詩」という文章まで読んで、ほとんど初めて強烈にわかる。そうか、この本自体が「後ろから」読むとわかる作品だったか、と。

 ポーの『ユリイカ』は、単純化を恐れずにいえば、十九世紀前半に形成されつつあったナショナリスティックなアメリカ像への激しい反発であり、北部中心の進歩主義的世界観に対抗するもう一つの世界観の提示だったといえよう。それでは、ポーは全米で盛りあがりつつあったナショナリズムとは無縁だったのだろうか。

 ここで『ユリイカ』が彼の理想の雑誌の具現であるといえば、あまりにも唐突だろうか。(p.240)

唐突でないことを言うために、この本一冊書かれたのではないか。

彼にとって、雑誌は、アメリカの読者を啓蒙してアメリカ文学をイギリス文学なみに引きあげるためのメディアであると同時に、詩や小説やエッセイ、批評、書評、専門知識など、多様なジャンルを盛り込める文芸誌かつ情報誌であり、芸術性と娯楽性を兼ねそなえた文字媒体であった。そのような雑誌の多様性こそ、経済的にも領土的にも発展し、加速度的に多様化する十九世紀のアメリカ社会を映しだせる最良の媒体であった。科学や哲学、宗教、批評、文学の混合物である『ユリイカ』は、彼が理想とした雑誌のありようを、宇宙論という形で具現したものだったのではないだろうか。

これ、これですよ。この『ユリイカ』=マガジン論に立って「後ろから読」むと、ポーの“The Purloined Letter”(HardcoverPaperback/邦訳『盗まれた手紙』)論として少し論じられていたのはこのことだとわかる。比較的関係薄な作品の概観の類を削ってでも、上に引用した設問と野口氏らしい一定の解答(らしいもの)をもっと縷説すべきだったと思う。

雑誌を意味するフランス語“magasin”が倉庫・店舗をも意味したことを野口氏はご存知ない。だからポー同時代あたりから発達する百貨店を“grand magasin”というのであるが。それがわかったら、以前取り上げたローレンス・ウェシュラーの『ウィルソン氏の驚異の陳列室』を熟読することだ。鷲津氏もアレン・カーズワイルの“A Case of Curiosities”(邦訳『驚異の発明家(エンヂニア)の形見函』〈上〉〈下〉)を読まれているのに、何故ウェシュラーはお読みにならないのかと思ったが、雑誌というコラージュの編集工学がマニエリスム文学の混淆ジャンルの問題であることを、電脳時代のアメリカ文学者はウェシュラーを通してそろそろ考え始めなければならない。ないものねだりついでだが、『ユリイカ』を論じる若い世代が誰ひとり Eveline Pinto,“Edgar Poe Et L'Art D'Inventer”を読んでいないのは怠慢の一語に尽き、さらに言うと、「引力」物理学の心理的側面を追求し切ったHélène Tuzet, "Le cosmos et L'imagination"を使えないのは「大」のつく失態である。ポーの母国と称しても良いフランスである。ポー読みがフランス語くらい読めて当たり前ではないか。

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