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『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』ホイットマン 飯野友幸訳(光文社)

おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)

→『おれにはアメリカの歌声
が聴こえる―草の葉(抄)』

Leaves of Grass

→“Leaves of Grass”

ホイットマンをゆるす」

 ホイットマンの名を聞いたことがないという人は少ないだろう。英語圏の詩人の中では、おそらくシェイクスピアについでもっともよく知られた存在である。小説中心の「古典新訳文庫」シリーズでも、ただひとり詩人としてラインナップに名前を連ねている。

 しかし、ホイットマンの詩はあんがい読むのがむずかしい。言っていることがわからないのではない。いや、言ってることはわかるのに、なおわからないところが難しいのである。たとえば「古典新訳文庫をかたっぱし読んでやる!」とやる気満々の人がいたとする。そういう人が、「あ、ホイットマンがいる。そうか詩か。よし、読むぞ!」と思ったとする。しかし、もし「そうか詩か(どんと来い!)」と意気込んだとしたら、すでにホイットマンはうまく読めなくなる可能性がある。

 そもそも詩というのは、読む前にこちらが「読みのモード」を切り替えないとうまく世界にはいっていけない、ということが多い。シェイクスピアソネットであれば、小さい部屋で熱い言葉をかわすわけだから、それなりの身繕いというか、ツメを切ったり、歯を磨いたり、という気持ちが大事になる。『失楽園』のように、悪魔がうようよ現れて大演説会を開いたり、魔王がヘリコプターみたいに空から舞い降りてきたりする作品の場合は、まずは雨戸を閉めて部屋を暗くし雰囲気を出すのもいい。

 モードの切り替えが忙しいのは躁鬱系の詩人だ。たとえばワーズワスなどは突然落ち込んだかと思うと、何の前触れもなくはしゃぎだし、歩き出し、山にのぼり、わけのわからない哲学を開陳して、あげくには涙ながらに岩だの木だの川だのに感動して、興奮の頂点にのぼりつめる。これなら、ひたすらめそめそするのが得意なテニスンのような詩人の方が、まだ付き合いやすいかもしれない。が、いずれにしても、こういう詩人たちは「よし、ではおつき合いしましょう」というこちらの心構えに、それなりに答えてくれる。どこかに連れて行ってくれはする。

 ではホイットマンはどうか? この人、モードということで言うと、明らかに「躁」である。暗い内容のはずなのにやけに明るい。何でもかんでも、大きな声で言ってしまう。まずここが、「そうか詩か。よし、読むぞ」という意気込みとそぐわない理由のひとつである。詩を読む人には、たいがい「まじめオーラ」のようなものが出ている。筆者も、自分でそれに気づくことがある。少し神経をぴりっとさせ、口数少なくなり、煩悩苦悩を忘れ、下手をすると眠りに落ちそうにも見える。ほんとうに寝ちゃったりもする。

 この「まじめオーラ」は実際に効果があるのだ。悪魔の大演説会であろうと、哲学ハイキングであろうと、こちらの心に受け皿をこしらえてあげるのが大事なのだが、そのためには自分の意識を抑え、鎮め、灰色の地のようなもの――「心の沼」のようなものを用意すればいい。これが詩を読むための器となる。そうすると意識の圏域から片脚だけでも外に出すような、意識と意識の外側とのあわいに遊ぶような心地に至ることができる。

 こうした「まじめ」の根本にあるのは、「静けさ」だろう。灰色で、地味で、波風の立たない空っぽさ。ところがホイットマンという人は、はじめからそういう「まじめ」の外にいるようなのだ。その代表作「おれ自身の歌」の出だしはこうだ。

おれはおれを祝福し、おれのことを歌う。

そしておれがこうだと思うことを、おまえにもそう思わせてやる。

おれの優れた原子ひとつひとつが、おまえにもそなわっているからだ。

何だか雑で、いい加減。騒々しく、図々しい。これが詩かよ、と思う。ただ、そう思いつつも、あれ、こういうのもありかな?という気にもなる。百年にひとりくらい、こういう人がいてもいいのかな、という寛容な気持ちが芽生えてくる。自分の図々しさを突きつけつつも、「まぁ、いいっか」とこちらに思わせるような、素っ頓狂で、天然で、アク抜けしたような饒舌。どうやらホイットマンを読むとは、こうしたホイットマンらしさのようなものを「ゆるす」ということのようなのだ。筆者の知人がある著名な学者の文章について「不愉快寸前」という絶妙の形容をしていたが、ホイットマンについてもこの表現を借用したくなる。「寸前」のところで、ゆるすのだ。

 私たちが「まじめ」に詩を読むとき、そこには頭(こうべ)を垂れて相手の門を叩く、という姿勢が織りこまれている。詩に限らず、多くの読書はそういう体験であろうし、私たちが「読む」という行為に期待するのはそういうものなのだ。頭を垂れるのは、そう難しいことではない。もちろん、ホイットマン門の前で頭を垂れるのも可能なのだが、多くの人は途中で「何だ、こいつ」と我慢できなくなる。「こっちが下手に出てると思って、いい気になりやがってぇ」と思う。

 見ての通り、今回の飯野訳では若い頃の詩は一人称が「おれ」になっていて、一瞬たじろいだ。「<おれ>かあ…」と思った。正直、今まで筆者が持ってきたイメージとは違う。しかし、飯野訳を通して読んでいくと、「おれ流」の一貫した文体効果が感じられてくる。「おれ」ならではの、荒っぽさやわざとらしい強引さ、そして何より、詩とは思えないほどの構えのない、準備のない、あけすけでスキだらけで、まるっきり空気のよめていない愚鈍さと、テキトーさと、鬱陶しさとが、妙に爽快に感じられてくる。

おれは肉体の詩人であり、おれは精神の詩人だ、

天国の喜びはおれとともにあり、地獄の痛みはおれとともにある、

おれは天国をおれに接木(つぎき)して繁茂させる、おれは地獄を新しい言葉に翻訳する。

おれは男の詩人であるとともに女の詩人でもある、

そしておれにいわせれば、男であることと同じくらい女であることもすごい、

そしておれに言わせれば、人の母であることほどすごいものはない。

おれは拡大と矜持(きょうじ)の賛歌を歌いあげる、

もう逃げたり、人をけなしたりするのはやめた、

おれは証明してやる、時間がたてば大きくなるんだと。

面識もないエマソンに自分の詩集を送りつけ、好意的な返事が来るとそれを勝手に新聞に転載したりするのがホイットマンという人であった。空気が読めないのはまさに地なのである。臆面もなく、自分の本を書評して褒めたりする。もちろん詩の中でも自分を賛美する。

ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙、マンハッタンの息子、

荒々しく肉体的で官能的で食って飲んで子をつくって、

感傷にひたることもなく、男たち女たちに威張りもしない、冷たくもしない、

謙遜でもなければ不遜でもない。

私たちはふつう、図々しい人やがめつい人というのは嫌いなものだ。理由は簡単で、そういう人は私たちに損をさせるから。被害を与えるから。本能的に私たちはそういう人を避ける。だけどなぜかはわからないが、私たちには、そういう人の中でもとりわけ札付きの者を異端として祭りあげ「ゆるす」ことを喜ぶ気持ちもある。ふつうは嫌だけど、たまにはいい。ごく稀に、「異端」として注目してみると何とも言えない愛嬌を発揮する人がいるのだ。だから「いけ、いけ、もっとやれ、」と思ってしまう。ホイットマンの奴、実はそんなこと、わかっていたのかなとも思う。それなら、なおさらゆるし難い厚かましさだ。だからよけい、ゆるすのも気持ちがいい。

 ホイットマンというと、すぐ英詩の革新者とか、自由詩の創始者などと技法的な面が言われることが多いが、これほど詩人本人の鬱陶しさが露出する詩人も珍しいと思う。ギンズバーグなんて足元にも及ばない。

 飯野訳には英語原文もおまけでついているので大変便利である。是非、英語も参照しながら読んでもらいたい。そして最後まで読んだら、次はより分厚い岩波文庫〈上〉〈中〉〈下〉を手に入れ、ペンギン版を注文し、と先に進むといい。最後に英語原文からの引用をひとつ。

I do not press my fingers across my mouth,

I keep as delicate around the bowels as around the head

and heart,

Copulation is no more rank to me than death is.

I believe in the flesh and the appetites,

Seeing, hearing, feeling, are miracles, and each part and tag of me is a miracle.

Divine I am inside and out, and I make holy whatever I

touch or am touch'd from,

The scent of these arm-pits aroma finer than prayer,

This head more than churches, bibles, and all the

creeds....

もしホイットマンが愚かに見えるとしたら、それはおそらく、ここまで堂々と「賢者の言葉」を語ってしまうからだろう。賢くみせようとする言葉は、しばしば愚かしく見えてしまうものだ。しかし、同時に、堂々と愚かになれる言葉には、ほんのたまに――ごくごく稀に――すごい迫力が宿る。この絶妙のバランスを実現する人は、そうはいないのではないか。

Leaves of Grass『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』岩波文庫版『草の葉〈上〉』岩波文庫版『草の葉〈中〉』岩波文庫版『草の葉〈下〉』