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『文芸誤報』斎藤美奈子(朝日新聞出版)

文芸誤報

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「ちょい怖」

 斎藤美奈子と言えば、ここ何年か、もっともノっている批評家のひとり。本書は「週刊朝日」と「朝日新聞」に連載された文芸時評書評を、多少の編集を加えてまとめたものだが、通読してみると、その勢いの元がわかる。

 汗水たらして次々と出る新刊をフォローする。まあ、それくらいは批評家なんだからするだろう。斎藤美奈子が偉いのは、「こんな、どーでもいいウンコ小説、書きやがって」と明らかに思っている小説についても、ちゃんと語れてしまうところだ。いや、ほんとのことを言うと、わりと本気で尊敬しているのらしい書き手(金井美恵子佐藤正午長嶋有絲山秋子星野智幸古川日出男など)よりも、「ふうん」程度に思っている有名文壇作家や、文学賞受賞作家などについておちょくりモードで書くときの方が、隠し味やスパイスが効いていて、読んでいて楽しい。本書の半分以上は、たぶん後者なのだ。

 だから、ふつうの書評とちょっとちがうのは、「よし、じゃ、これを読んでみよう」と思うことよりも(そういうことももちろんあるのだが)、「いけ、サイトー、もっと言っちゃえ」という気分になるのが多いことだ。知らなかった本を紹介してもらうというより、すでに読んだことのある本についてぴゅっぴゅっと突っついてもらう。そうすると、凝っているツボを押してもらったような、それでモヤモヤが解消されていくような、ほっとしたような解放感が得られる。

 何よりお説教をしない。これは批評家では珍しいことだ。もちろん実はそう見えて、しっかり説教も布教もしている、その証拠に斎藤美奈子のものを読むと、な~んとなく叱られたような気にはなるのだが、この人は威張らないで事をすませるのがうまい。たとえば、筆者の同業者がちくっとやられているところを引いてみよう。

 それでも陰でいじめを続ける子どもたち。しかし、アッシーはぐいぐい子どもたちをリードし、やがて彼らもラグビーの練習を通して変わってゆく。暗唱好きな点とか「この先生は斎藤孝の弟子か?」なところもあるけれど、おしまいではホロリとさせるし、こんな先生がいたらさぞや気持ちがよかろうとは思わせる。作者はフィリップ・ロスなどの翻訳でも知られる英米文学者だが、そういう人が小説を書くとどうして(以下略)。

英米文学者が出てきて、なんか心が痛む。引用しなきゃ良かったのだが、あまりに「(以下略)」が絶妙で…。それに、全体として、この小説は褒められていないわけでもない。あるいはこんな書き方もある。池永陽『少年時代』の評である。

そう。これが吉田川(長良川の支流)に面した八幡町の子どもたちの世界なのである。四国の四万十川には、笹山久三四万十川』全6部(河出文庫)という少年の成長物語にして河川小説の傑作がある。四万十川と同じく最後の清流と呼ばれる長良川水系を舞台にした大河小説があってもいいし、ぜひ読みたい。『少年時代』のあんまりな結末に卒倒しそうになりつつ、長良川復権のためにも、池永さん、続編をぜひ!

 こういう批評の方法が、昔からもっとあっても良かったのになあ、とも思うのだが、考えてみると、日本でもあるいは西洋でも、小説家に比べると批評家は男女比の片寄りが大きかったのではないだろうか。圧倒的に男が多かった。男が多いと、どうしても威張り合いとケンカが中心になる。何しろ、男というのは「男らしい」のだ。突っつきや隠し球よりも、切った張ったの権力闘争が中心となる。

 斎藤美奈子もときにケンカ腰にはなるが、たとえば上野千鶴子のような「ゲキ怖」タイプとちがって、「ちょい怖」くらいではないか。意地悪だけど、とどめは刺さないでくれる。ひょっとすると、下手に出たら許してくれるかも、と思わせたりする。ほんとは情に厚いんじゃないの?照れてて隠してるだけなんじゃないの?と期待させる。そんな「ちょっと怖いお姉さん」風情の批評がもっとあってもいいのではないか。

 『妊娠小説』にはじまる他の著作を確認すればわかるように、斎藤美奈子は流行をかぎ分けるだけの批評家ではない。おそらく一番の武器は「何か変だよな」という直感、というか違和感なのだろうが、切り口をつけるだけなのではない。そこからぐいぐいっと全体図を描いてみせる力業を持っている。今回の書評集でも、これだけ短い文章の集積でありながら、ある程度の大きな流れ(たとえば「L文学」とか「格差」)につながる瞬間がある。書きっぱなし、言いっぱなしではない。やはり、どこか批評家魂のようなものがうずくのか、ぱぁーっと見晴らしてみせるのだ。

 それがもっとも表れるのが、文章の出だしである。一冊の本につき、だいたい原稿用紙二枚と少しでまとめなければならない。実際に書いてみればわかるが、これはたいへん難しい。作家を紹介し、ストーリーを語り、しかも引用までしている。このスペースで、作品を越えた大きな枠組みの話をすることなど、不可能にも思えるのだが、秘密は出だしにある。

 角川書店の「野性時代」が主催する青春文学大賞は「作家も評論家も引っこんでろっつーの。おめーら、うぜーんだよ」というコンセプトの賞である。

 選考過程を見れば一目瞭然。なんたってこの賞は、候補作を誌面に載せて読者投票をやった後、「読者選考委員、書店選考委員、編集者選考委員計6名による最終選考を行い、受賞作を決定」するのである。ハハハ、そりゃそーでしょうとも。文学はどーせ読者と書店員と編集者のもので、批評家は必要ないのでしょーよ。

 で、読んだよ2005年の受賞作。木堂椎『りはめより10倍恐ろしい』。

スタートダッシュで一気に話をつくる。行けるところまで行っておく。このような短評だと、話を始めることよりも、いかに終わらせるかが難しいわけで、ロケットと同じ、出だしで思い切り勢いをつけておけば、着地点がうまく決まるのだ。逆にゆるっとはじまってしまうと、終わるに終われなくなる。ちなみに、この文章の結末は次のようになっている。

賞のありようと瓜二つ。悪い作品ではない。ケータイで書いた小説らしい言葉の連打感もある。でも、打たれ弱さを感じるのだ。強くなるには外の風にも当たらないと。

 ついでに他の出だしもいくつかあげておこう。

 村上春樹、初期三部作の主人公の職業はライターだった。しかしおそらくいまだったら、彼はネット関連の仕事をしていたのではなかろうか。

 ってなことを急に思ったのはあれの21世紀バージョン(?)を読んでしまったからである。中山智幸『さりぎわの歩き方』。2005年の文學界新人賞受賞作である。これが似ているのだ、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)とかに。とりわけ大事なことをさもどうでもよさそうに、どうでもいいことをさも大切そうに書く呼吸が。

 若手の演劇人が虎視眈々といい小説を書いているんだよねという印象を私は最近もっている。宮沢章夫松尾スズキがそうであったように、前田司郎も本谷有希子も、戯曲と小説、両方の賞に名前があがる。彼らの特長は「彼はそのとき思った」式の、これが小説でござい、な書き方とは少しズレていることだ。岡田利規の初の小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』もそう。2編の短篇収められていて、うち一編「三月の5日間」は2005年に岸田戯曲賞を受賞した同名の戯曲の小説版だ。

一時期、金井美恵子の書評はだれも書きたがらないという噂があった。彼女の小説は大好きだが、書評は書きたくない。変なことを書いたら作者にバカにされるから。

う~ん。書評の出だしを集めただけで、一冊の本ができそうではないか?

 ところで、ふだん新聞や雑誌でお馴染みの斎藤節なのだが、こうして単行本で読んでみると、おや、と思うことがある。ふだん、新聞などでは気づかないこと。それは、この人、ずいぶん大きい声でしゃべるなあ、ということである。もちろん出だしからしてそう。理由はある。新聞にしても雑誌にしても、いわば騒々しい立食パーティのようなもの。そこに書くというのは、誰もこっちを見ていないパーティでスピーチをするようなものだ。それなりの大声でないと、耳など傾けてくれない。だから、単行本の静かな環境に移植してみると、その音量がきわだつ。

 これまでの文芸欄は、声を潜めることでこそ、一種の聖域をつくってきたのかもしれない。しかめっつらで、野太い声で、威張って見せたりして。そういうのをいったんチャラにして、いっそ声の大きさで勝負してみましょうよ、という体力と気迫のようなものを感じる。あるいは「文学」というフィールドがそこまで追いつめられてきた、ということかもしれないのだが、大きい声で、しかもツボに達するようなことを言える人が出てくると、批評界の何かが変わるのかなあ、とうっすら期待したくなる。

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