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『フィギュールⅠ』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

フィギュール筫

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 フランスの批評家は自らの批評原理をあらわす言葉を評論集の総題にすることがすくなくない。ヴァレリーの『ヴァリエテ』、サルトルの『シチュアシオン』、バルトの『エッセ・クリティック』などである。ジュネットが自分の評論集のタイトルに選んだのは『フィギュール』で現在Ⅴまで出ている(邦訳はⅢまで)。

 フィギュールには「形姿」、「数字」といった意味があるが、本書についていえば古典修辞学における「文彩」が重要である。ジュネットは随所で古典修辞学に言及しており、しかも構造主義の源泉の一つと考えているらしい。トドロフはロシア・フォルマリスムに、クリステーヴァはバフチンに依拠したが、ジュネットは古典修辞学を背景に自らの物語論やテクスト論を構築していったといえるかもしれない。

 さて第一集であるが、冒頭にフランス・バロック期の詩を論じた三篇の評論が掲げてある。これがすばらしいのだ。

 まず、サン=タマンを論じた「可逆的世界」。鳥と魚はわれわれ二次元に縛られている人間と異なり、三次元の立体空間を自由自在に進むことができる。サン=タマンは「同時に泳ぎ飛ぶ」二つの種族をシンメトリックにとらえ、水の中の世界と大気の世界がたがいに映発しあい、鱗が羽に、羽が鱗に変ずる不思議を歌う。

燃える日輪の下、私は何度となく見たのだ、

本物の飛ぶ魚が、あたかも天から落ちてくるのを。

それらは波の中で、貪欲な怪物たちに追われて、

その臆病な翼のうちに避難所を求め、

漂う松の木の中に、あらゆる方向から雨降り、

その黄金の体を甲板に撒き散らした。

 バロック詩についてはウンベルト・エーコジャン=クロード・カリエールが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で熱っぽく語っていたが、確かにこれはすごい。

 次の「ナルシス・コンプレックス」ではバロック詩の偏愛する反映のテーマがバシュラールのいう「宇宙的ナルシシズム」に向かう過程を跡づけ、「黄金は鉄のもとに落ち」ではバロック的テーマの網の目がパスカルラシーヌにも受けつがれていることを明らかにしている。

 ジュネットというとバルトの弟分で構造主義理論を器用にまとめる人くらいにしか見ていなかったが、こんなテーマ批評の傑作を書いていたのだ。もっと早く読んでおきたかった。

 バロック詩の次はプルースト論だが、登場人物が物語の進行につれて見せていく多面的な像が互いに衝突しあい、否定しあううねりがバロック詩の延長で論じられている。ジュネット物語論はこのプルースト論が発端らしい。本格的に読んでみたくなった。

 「固定しためまい」はロブ=グリエ論である。昔読んだ時はバルトが『エッセ・クリティック』で当惑気味に語ったロブ=グリエ1とロブ=グリエ2の矛盾をうまく整理していているなと思ったが、バロック詩からの流れで読むと別の相貌が見えてくる。

 ロブ=グリエ的世界の特権的な空間である迷路は、かつてバロックの詩人たちを魅了したあの領域、差異と同一性の可逆的な記号がいってみれば厳密な混同によって結び合う、存在のとてつもない領域である。その鍵となる語はわれわれのフランス語には存在しないあの副詞であるかもしれない。……中略……その語とは、似ているけれども違ったようにという副詞である。この単調でかつ当惑をかきたてる作品群においては、空間と言語が無限の増殖によって消滅していく。ほとんど完璧にたっしているこの作品群は、まったくそれ自身のやり方で、ランボーのことばをもじって言うなら、「固定した」めまい、つまりおこると同時に消されるめまいであるのだ。

 この一節は『囚われの美女』や『グラディーヴァ』など、ロブ=グリエが監督する映画作品を予告しているといっていいだろう。1960年時点でここまで見通したのはみごとだと思う。

 「マラルメの幸福?」はジャン=ピエール・リシャールの『マラルメの想像的宇宙』の書評として書かれた文章で、テーマ批評と構造批評の間に広がる深い溝を語っていて興味深い。リシャールはテーマ批評の側に残ったが、ジュネットはバルトともにこの溝を越えてゆくことになる。

 「空間と言語」はジョルジュ・マトレの『人間的空間』の書評として書かれた文章である。マトレは語彙論が専門で、同書で「共産党方針」「将来の展望」「内面の隔たり」のような決まり文句に潜む空間的隠喩を研究しているという。ジュネットはマトレの着眼に注目し、プルーストの空間性の指摘を高く評価している。

 「羊の群れの中の蛇」ではふたたびバロック期にもどる。バロック期から古典期への変わり目にあらわれた牧歌物語『アストレ』が主題である。『アストレ』は数年前、ロメールが映画化して『我が至上の愛』という題で公開されたので必ずしもなじみのない話題ではないだろう。映画を見ていれば決して無菌無害な少女小説ではなく「世界文学全体の中で最も長大で最も愛すべきエロティックなサスペンス」だという評言もうなづける。

 「文学ユートピア」はボルヘス論で、架空の時空がなだれこんでくる「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」を中心に無限の繰りかえしの空間を論じているが、ここにもバロックの影がさしている。

 「心理分析的読み」はシャルル・モーロンの『心理批評序説』の書評として書かれた文章である。モーロンはテーマ批評と同様の方法論をとりながら、テーマ批評の内観的性格を批判して客観的な分析を標榜しているが、その揺るぎない客観性の根拠なるものは精神分析なのである。ジュネットは答えが問いの中にあらかじめ含まれていると皮肉を言っている。

 「ベルクソンモンテーニュ」はチボーデ『モンテーニュ』の批判版の書評として書かれた文章である。チボーデはベルクソン哲学に依拠していたが、未完に終わったこの本の中でもモンテーニュを徹底してベルクソン的にとらえていて「彼の内あるすべてのものはベルクソン哲学へと向かっている」、「ベルクソンの哲学は常にモンテーニュの内に潜在している」、「モンテーニュ、忠実なベルクソン主義者」とまで書いている。

 「構造主義と文芸批評」は最も早い時期に邦訳された論文で、日本ではジュネットの名前はこれによって知られたといっていいだろう。ロシア・フォルマリスムと構造批評の関係をきれいにまとめているが、優等生的でトドロフと五十歩百歩という印象を受けた。今回読み返して、テーマ批評が作家の個性と誤認しがちな時代や慣習に属する嗜好をトポスと呼んでいるのに気づいた。

 「語と驚異」はバロック時代に活躍したイエズス会士、エチエンヌ・ビネの『驚異についての試論』を論じた文章である。至善の驚異にあらわれた造物主の業を博物学的に紹介した本らしいが、科学よりもレトリックに重きを置いていて「雄弁家の使用に供された装飾の貯蔵庫」である。「ビネは常に驚いていると言われてきたが、そうした指摘はバロック全体に当てはまろう」というわけだ。

 「記号の裏」は1964年頃に書かれたバルト論である。初期のバルトはマルクス主義者と見なされていたが、イデオロギーはバルトの本質ではないというのが本稿の趣旨のようである。

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