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『逃亡くそたわけ』絲山秋子(中央公論新社)

逃亡くそたわけ

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「頼むから俺を観察しないでよ」

 絲山秋子は大好きな作家なのだが、そればっかり続けて読む気はしない。ずっとそこに居続けたい、しっとりその雰囲気に浸りたい、という類の小説ではないのだ。もっとケンカ的というか、向こう気が強くて、パンチを浴びせられたり、凹まされたりする。どの作品にもSM的な応酬関係が仕組んであって、たとえやさしく明るい語り口でも、何となく剣呑さが消えない。いつも刃物がちらついている。毎日、少しずつ、寝る前に読みましょう、という世界ではない。

『逃亡くそたわけ』もそうだ。主人公の花ちゃんは躁鬱病。躁の症状が出て、自殺をはかった。それで精神病院に入ったのだが、ある日、同じ病棟に鬱病で入院している「なごやん」という男の子を誘って脱走する。銀行でお金をおろし、とにかく逃げるのだとばかりに、ほとんど目的もなく「ルーチェ」を駆って九州縦断の旅に出る。まさにロードムービー。映画化されたのもよくわかる。

 しかし、男と女の気持ちが少しずつ近づいていって、あるとき美しく交差する、というあまりにふつうなロマンスの枠組みをかなり守っているにもかかわらず、この小説もどこかぴりぴりしている。時間はのんびり流れるのではなく、といってはらはらどきどきというのでもなく、絶えず休むことなしに走っているという印象。どこか気が抜けない感じがする。神経が立っている。見逃さないぞ、と言わんばかりの作家の目も光る。

 だいたいにおいて、絲山の語り手はおっかない。たとえば『イッツ・オンリー・トーク』や『袋小路の男』の語り手たちは、とめどないというのか、制御が効かないというのか、独特の「狂気」を漂わせた、興奮感を発散している。饒舌というのではないが、息が荒い。『逃亡くそたわけ』の花ちゃんはそういう意味では逆で、精神病院から逃亡したという設定で文字通り精神の安定を欠いているはずなのに、実におおらかで、ときには淡々と、ときには繊細に世界を描いていく。ふたりでブドウ畑に飛び込んで、果実をもぎとって口にする、なんていう場面さえある。

 でもこの小説もやはりおっかない。逃亡仲間のなごやんを描写する次の一節などは、つくづく怖いなあ、と思う。

 なごやんが、くやしがるときに唇を噛むのは、そうすると可愛い顔になるのを自分で知っているからで、そんな余裕もないほど口惜しい時には頭をグッと後ろに引いて目が細くなるのですぐわかる。普通にしていればかっこいいのに、顔に上半身と下半身があって、作り笑いをする時は口だけで笑う。得意になった時にはまゆ毛が上がる。気に入らないときには目鼻がばらばらになって福笑いみたいな顔になる。本当の気持ちは顔の上半身をみていればわかる。自分がどう見られたいのかは顔の下半分に出る。うまくいえなかったけれど、そういうことを話すと、

「頼むからさあ、俺を観察しないでよ」

 と言った。けれどもそう言っている顔の上半身は照れ照れで、なごやんは実はいじられるのが嬉しいのだった。

とりあえずの反応は、「いやぁ、ちょっぴり意地悪な花ちゃんですねえ」程度かもしれない。たしかに裏から回り込むようなこういう視線は、すぐれて小説的なもので、まさに観察と諷刺の精神。そこにさらに「なごやんは実はいじられるのが嬉しいのだった」と、ひとひねり加えるあたりも、にくい。

 しかし、一見さわやかに、ぴりっと軽く偽装しているかと見えるけど、こういう女の目というのは、ものすごく濃厚なものではなかろうか。実に濃厚に男を凝視する目。意地悪さを混じらせつつも、それを包みこむ「熱さ」をもった目。男だと、こういう凝視はすぐにセックスだの欲望だのといった話になるのだろうが、このような場合は、簡単に性で解決がつかないだけに恐ろしい。もっと、計り知れない支配欲を隠し持っているような気がする。

 ついでにもう一カ所、引いておこう。東京かぶれのなごやんは、大学で四年間慶應に通ったというだけで、すっかり東京人気取りなのである。

 

中津に行く道は開けていたけれど、あるのは斎場ばかりだった。もれなく仏壇屋もついてきた。人なんか少ししか住んでいないのにどうしてこんなに人が死ぬのだろうと思った。なごやんは、
「不吉だ」と呟いた。
福沢諭吉の旧居はおんぼろの萱葺き屋根の家で、記念館はあたしには退屈だったけれど、なごやんは、
「ほら、これが三田キャンパス、うお、日吉もある、懐かしいなあ」
と、航空写真の前で大騒ぎして満足したようだった。パネル展示には、
「諭吉は大へん晴々とした気持でふるさと中津を発ちました」
と書いてあって、なごやんも名古屋を出るときそんな気分だったのかもしれないなと思った。

 なごやんの台詞を含めた、カッコ内の言葉を聞き取る語り手は、やっぱりすごく小説的である。つまり、観察的でちょっと距離を置いている。でも、それだけでなく、前の引用に表れていた濃厚さや、アテンションの鋭さのようなものもある。そこには花ちゃんの、何とも言えない生理のようなものが隠れている。

 こうした描写があるのは、小説のまだ5分の1から3分の1くらいのところで、ストーリー的にはまだまだふたりが馴染んでいない、何となくよそよそしい段階である。出発したばっかりだし、こちらとしてもついうっかり、さわやかに読み飛ばしてしまうところなのだが、ここに埋め込まれた「熱」は、ストーリーが進行するにつれて、少しずつ表に出てくる。しかも、「症状」めいたものとして。

 道中、花ちゃんの体調はずっと不安定である。耳には絶えず「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」という幻聴が聞こえている。途中ひどい頭痛に襲われたり、風呂場で倒れたりもする。それから、いくつかの「事故」もある。車のエアコンが壊れて車内が灼熱の熱さになる、とか。川で洗濯していたなごやんが、転んで流れに落ちて溺れそうになる、とか。やくざのポルシェに衝突して、慌てて逃げるなんていう場面もある。

 実は故障や転落や衝突なども含めて、ぜんぶ、花ちゃんの「体調」や「症状」の一貫ではないかな、と錯覚させるようなところがこの小説にはある。ひょっとするとすべてが、花ちゃんのあの「熱さ」に発した展開なのではないか。森の中で、猫山メンタルクリニックとかいう医院が忽然と現れるあたりはかなりのものだ。

 すごく難しいことをしている小説なのである。そもそも精神病院から遁走するという設定からしてファンタジーだの幻想だのが、抒情的な粉飾として軽々と使える世界ではない。幻だの感情の揺らぎだのということは、そのまま、殺伐とした薬物や治療のプロセスに直結する。小説のもう一方の極にあるのは、精神病の症状を淡々と描く目である。

テトロピンを飲むくらいなら治らない方がましだ。躁や統合失調症による神経の興奮を静める薬だと医者は言うけれど、そんな生易しいものではない。患者はみんなあの薬で「固められる」と言っている。文字通りだ。飲むとものすごく気分が悪くなって、頭の中に暗い霧が来る。だるくて動くことも喋ることも出来なくなる。考えることすら出来なくなるのだ。何を見ているのか、それすら忘れてしまう。時間をまるごと失ってしまうのだ。薬を飲んだ後にうっかりお菓子なんか食べているとそのまま意識がなくなって、気がつくとお菓子が口の中でどろどろになっている。

夢も幻も、即物的なカタカナ名の薬によって引き起こされたり、治療されたりするものにすぎない。だとすると花ちゃんの「熱」が、そういう治療的な目のわずかなスキをついて、もっと個人的で、もっと掛け替えのない非薬物的な「症状」としてストーリーの上に現出するのは、ほとんど奇跡的なことと思えてくる。花ちゃんの「熱」は明らかに夢や幻になりたがっている何かなのだが、ひとたび夢や幻として認識されたなら、薬物によって治療されてしまうかもしれないのだ。だから、花ちゃんの「熱」は変形されて隠し持たれねばならない。体調不良だの、故障だの、転落だのという、健康で常識的な物差しに紛れる必要がある。そうして人知れぬ「目」としてこっそり、しかし「熱」をこめてこちらを見る。そこが、怖い。「頼むからさあ、俺を観察しないでよ」というなごやんの台詞、なかなか意味深いのである。

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