『季節の記憶』保坂和志(中公文庫)
「文盲小説」
保坂和志の文体は、吉田健一から教養のおもちゃ箱を取り上げたような感じで、読点ばかりが続いてなかなか句点に辿りつかない。同じ句点のお預けでも、野坂昭如のような粘りや速いピッチはなくて、意地もなく(意気地がないのとは違う)焦燥もない。
その特徴は、本書の主人公(中野さん)の日課である散歩の記述にも表れていて、それがそのまま、著者特有の文体を的確に比喩する表現にもなっている。
それでこのあたりは道が複雑に入り組み真っ直ぐな道もないし道が直角に曲がることもない。しかもほとんどの道は山の途中で行き止まりになり、平らな土地の道のように曲がり角は別でも奥でまたつながるというようなこともほとんどなくて、僕たちはそのつどそのつど行き止まりを引き返すのだが、もともと目的なんかないそういう散歩をしているのだからそれでかまわなくて、はじめのうちは「どこに行こうとしているの?」と言っていた二階堂もだんだんとつまりこういうことなのかとわかってきて、…
友人の二階堂さんのみならず、読者も「つまりこういうことなのかとわかってきて」散歩の道連れとなる。つきあっていられない読者は、このあたりを折り返し地点として別行動をとるか、とうに本書を放り出している寸法となるのだろう。
迂遠な淡泊さは文体だけではない。物語には、事件も山場もない。幾人かの知人・友人が出没する卑近な鎌倉散歩と交流が、出来事のすべてとなる。中野さんと5歳の息子クイちゃん、加えて隣人の美紗ちゃんは、毎日揃って散歩をするが、5歳のこどもが歩ける範囲(と言ってもクイちゃんは健脚だ)がこの小説のテリトリーで、そのなかで経験しているこころの変化を余計な修飾せずになぞった集積が『季節の記憶』となる。
こうした緩やかなこころの移ろいの在り方が吉田健一を連想させてしまうのだが、大きな違いもある。保坂和志のこころの散歩には、大概、同伴者がいる。それも行きずりの他人ではなく、生活の背景を見知った他人、少なくとも名前がついているか顔馴染みの他人が連れ合いになる。孤高に陥らず、思索の対象は五感で体験する日常の見聞で、生活の近くに誰かがいて、彼らにこころが開かれている。
とはいうものの、彼らは過剰に干渉しないし、依存もしてこない。寝小便をする5歳のクイちゃんですら「自立」しているように見える。長い時間を共有し、親しくはあっても、その距離感は独特で、彼らが集まると猫の寄り合いのように見えなくもない。
たとえば、中野さんは姥乃木という友人に「おまえは人間じゃなくて、人間のメカニズムの方しか面白いと思っていないからな」と指摘される。「世間的にはおれだって、広い意味で『人間に関心がある』形態の一つなんだよ」と返した中野さんは、「おまえはいっつも、人の話をソッポ向いて聞いてる。ホントに失礼なやつだ」と言われる始末となる。
この遣り取りには、作家の核心に触れるところがあって、面白いことには、「さっきから姥乃木が言っている僕に関する評価はなんだかそのまま、僕がいつも息子に感じている評価のようだと思った」との締めが加えられている。つまり、中野さん(≒保坂和志)とクイちゃんには共通点がありそうだ。
本書の全編を覆うこころの移ろいは、畢竟、考えの移ろいであり、言葉の移ろいとなる。情動が大きく揺さぶられるでもない静かな日常生活の思考の軌跡こそが『季節の記憶』なのだ。この思考メカニズムは五感に忠実で、そこには効率を狙う胸算用がない。一貫した執心があるわけでもない。対人・対物を問わず外界に好奇心が強く、情緒的関係はあっても、基本は自閉的回路となる。奔放な発想(空想)を巡らせ、対話はしても恣意的に取捨選択する、自分本位の思考パターンと呼んでもいい。しかるに、このパターン、読み書きをまだ覚えない幼児の思考と共通点がある。蛇足ながら、この自閉は不安に由来する自閉ではなく、安全ゆえに成り立つ自足した自閉であることが肝腎となる。
中野さんはクイちゃんが読み書きを覚えないですむようにと懸命に努力をしている。そのために幼稚園への入学も先延ばしにしているくらいだ。自由な知的関心が、識字という社会ルールの刷り込みによって頓挫してしまうことが嫌いなのだ。豊穣な文盲の世界への没入を少しでも長引かせようと、中野さんは苦心している。
マクルーハンの「無意識は文字文化のせいである」ではないが、文盲の世界とは「変な意識」(=無意識)が生じる前の世界であり、触知的・聴覚的世界(感性)と文字的世界(知性)が分裂していない世界である。この小説でクイちゃん(この音の響きがいい)が際立った魅力を放っているのは、作家が大事にしている分裂以前の世界をクイちゃんが具現しているからなのだろう。
総じて、『季節の記憶』というこころの散歩は、社会化され分裂してしまったおとな、しかも小説家という文字世界を舞台とする著者が、分裂以前の文盲の世界を想起・生成する実験的作品ではないかと思う。分裂の最たる姿としての小説への挑戦ですらあるかもしれない。『季節の記憶』には、著者が幼年期を過ごした鎌倉の記憶が籠められている。風景や匂い、木や土や砂の肌触り、それらの季節による推移など、身体に刻印された記憶に忠実であろうとする試みが、読者をそれぞれの文盲時代へと回帰させたとしたら、実験は成功したのではなかろうか。