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『現代語訳 舞姫』 山崎一穎監修、井上靖訳 (ちくま文庫)

現代語訳 舞姫

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 『舞姫』の現代語訳が必要とされる現状は残念であるが、井上靖が訳した『舞姫』があるというので読んでみた。

 もともとは1982年に学研から出た『カラーグラフィック明治の古典』シリーズの鷗外の巻のために訳されたが、2003年に筑摩書房から出ている高校用の国語教科書『精選 現代文』に再録された。ちくま文庫版は『精選 現代文』の方を底本としたとのことである。

 表紙には豊太郎とエリスが出会った「古寺」の最有力候補とされてきたマリエン教会の絵があしらってあるが、六草いちか氏の探索によってガルニゾン教会と判明した以上、いずれ変えなければならないだろう。

 鷗外の原文と井上靖の現代語訳にくわえて監修者の山崎一穎氏による60ページ近い解説があり、さらに資料篇として星新一『祖父・小金井良精の記』と小金井喜美子「兄の帰朝」のエリス関連部分の抜粋、前田愛氏の『都市空間のなかの文学』から『舞姫』を論じた「BERLIN 1888」の抜粋が収められている。星新一と小金井喜美子の文章はエリス問題の一次資料として定番だし、「BERLIN 1888」は日本文学の研究に都市論を導入したことで知られる有名な論文である。

 欲をいえば森於莵と小堀杏奴の抜粋がほしかったし(小金井喜美子はなくてもいい)、『うた日記』から「扣鈕」をもってきてもよかっただろう。

 『舞姫』の原文と現代語訳は一回り大きな活字でゆったりと組まれ、下段に注釈がはいるようになっている。原文49ページに対して現代語訳は58ページと20%ほど増えている。日本の作家には大きくわけて和文系統の人と漢文系統の人がいる。鷗外はもちろん漢文系統だが、井上靖もそうである。井上靖の文章も簡潔といわれているが、それでも20%近くも増えてしまうのだ。

 井上靖は『舞姫』をどう料理しているか。豊太郎がエリスと出会う場面を読み較べてみよう。まず現代語訳。

 相手はおしはかれぬほどの深い歎きに遭って、あとさき顧みるひまもなく、ここに立って泣いているのであろうか。私の臆病な心は憐愍の情に打ち負かされて、私は思わずそばに寄って、「なぜ泣いておられるのか。この土地に繋累のない外国人の私は、却って力を貸して上げ易いこともあろう」と言いかけたが、われながら自分の大胆さに呆れている気持ちだった。

 台詞がまるっきり井上靖調なのが笑える。同じ箇所の鷗外のテクスト。

 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに係累なき外人よそびとは、かへりて力を貸しやすきこともあらむ。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 「嘆き」を「歎き」、「係累」を「繋累」のように井上訳の方が見慣れない漢字を使っているように思うかもしれないが、本書に収録された「原文」は高校生向けのテクストなのか、見慣れた漢字に書き直されている。オリジナルに近い「青空文庫」から引用すると以下のようになる。

 彼ははからぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人よそびとは、かへりて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 井上訳は鷗外の措辞をできるだけ忠実になぞろうとしていることがわかるだろう。訳文もほとんど直訳といっていいくらい原文に近い。鷗外に対する敬愛の念がそれだけ深いということだと思う。

 いい現代語訳だと思ったが、高校生は見慣れない漢字に尻ごみしてしまうかもしれない(大学生だって怪しい)。ここは現代語訳と割り切り、著作権継承者の了解をもらった上で普通の文字遣いに変えるのも一法だろう。

 むしろオリジナルに近づけるべきは「原文」である。なぜあのような中途半端な「原文」を載せたのか理解に苦しむ。

 ぜひやってほしいのは本文の校異だ。「舞姫」は1890年に『国民之友』に掲載されたが、1915年に『塵泥』所載の決定版にいたるまでに五つの版があり、推敲を重ねているようである。六草いちか氏の探索では異文が重要なヒントになっていたが、せっかく脚注欄を設けたのだからを異同を示してほしい。原文自体は「青空文庫」でも読めるが、文庫版で改稿の過程がわかるとなれば買おうという人は多いのではないだろうか。

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