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『ノモンハンの戦い』シーシキン他著、田中克彦編訳(岩波現代文庫)

ノモンハンの戦い

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 モンゴルの首都ウランバートルの空港に到着して最初に向かったのは、街の中心から南に3キロのところにあるザイサン・トルゴイだった。街を一望できるこの丘の上に、1971年に建てられた記念碑があり、モンゴルとソ連とが協力してナチス・ドイツや日本軍と戦い、勝利したことがモザイク壁画で描かれている。1939年のハルハ河戦争(日本ではノモンハン事件)についても、描かれている。その日は天気が悪かったにもかかわらず、多くの人びとが訪れていた。国内外を問わず、ウランバートルを初めて訪れた人びとが行く場所に、モンゴルとソ連との友好と相互援助を表象するための悪役として、日本が描かれている。


 1939年にモンゴルと満洲国の国境紛争を原因として始まったハルハ河戦争は、4ヶ月の戦闘で双方に2万を超える戦死者がでた。戦死者数については、いまだに諸説があり、はっきりしないが、短期間に多くの死者がでた激戦であったことに間違いはない。ソ連赤軍の頑強な戦車隊にたいして、日露戦争時の203高地を思い出させるような日本関東軍の無謀な突撃が、死者の数を増やしたのだろう。その実態を、ソ連側の視点で描いているのが本書である。前半は、ハルハ河戦争の最初の刊行物となったシーシキン少佐の1946年の論文で、その後のソ連・モンゴル側の基礎研究資料になった。後半は、ソ連の従軍作家シーモノフの回想で、1969年に刊行された。これまで知らされなかった「停戦後の日本兵の屍体処理と捕虜の交換の状況が描き出されている」。そして、何万もの兵士が死んだこの戦争の結果、国境線は「ほぼモンゴル人民共和国の主張どおりとなった」。しかし、「モンゴル人民共和国に対するソ連の軍事的・政治的支配はますます露骨に強固にな」り、「ソ連がモンゴルをソビエト化するためのあらゆる口実を与えた」。いっぽう、満洲国「防衛のために戦ったはずの関東軍は逃走し、満洲国そのものがついえ去った」。


 編訳者の田中克彦は、本書の意義をつぎのように説明している。「日本としてはどうしてもやっておかなければならない基本作業がある。それは、ノモンハン戦争についての、ソ・モ側の基本文献を、誰にでも読めるようにしておくことである。そうしないと、あらゆる研究、あらゆる創作活動は、日本人だけのうちわ話になってしまい、世界史的な意味を持ち得ないからである」。編訳者の日本側からだけでなく、ソ連側からの観点が必要である、ということはよくわかる。しかし、これだけでは「世界史的な意味」にはならない。所詮、ソ連と日本の帝国主義的視点でしか、この戦争をみることができないからである。戦場となったモンゴルと満洲の住民の視点はないのだろうか。


 それにしても、気になったのは、編訳者の「この本を手にする読者のために」の最初のページで書かれている、つぎのパラグラフである。「忘れてはならないことは、満洲側もモンゴル側も相互に代表を出して、より大規模な紛争に発展するのを回避しようとしてねばり強く話しあいを続けたのであるが、それを日本もソ連邦も許してはおかなかった。それぞれは、満洲とモンゴルの、この平和を望む会談の指導者たちを、それぞれの手で処刑してしまった。ソ連側はモンゴルの指導者たちを「日本の手先き」と呼び、日本側は満洲国の代表を「ソ連に密通」しているとして摘発した。その上で、両陣営は、一九三九年五月一一日の衝突をきっかけに大規模な戦闘へと突入したのである」。


 ウランバートルの街の中心から3キロほど東にいったところにあるモンゴル軍博物館まで、テクテクとひとりで歩いて行った。1アメリカドルを払って入館すると(同じく2005年に訪れたミャンマーでもカンボジアでも、博物館の入館料はアメリカドル払いだった)、だれも訪れる人がいないらしく、展示室を開けて電気をつけてくれた。先史時代からの戦争にかんする展示がしてあったが、もっともスペースを割いていたコーナーのひとつが、ハルハ河戦争についてだった。残念ながら、説明はキリル文字モンゴル語がほとんどでよくわからなかったが、少ない英語の説明文や写真などから、「侵略者日本を撃退した」ことに誇りを感じていることがわかった。モンゴル側の、そして満洲側の視点で、もっとハルハ河戦争について知りたいと思った。


 因みに、靖国神社遊就館にも「満ソ国境紛争」のコーナーがあり、「ノモンハン事件」について、つぎのように説明してある。「昭和十四(一九三九)年五月、満蒙国境のノモンハン付近で、外蒙兵と満洲国軍が衝突したことを発端に、日ソ(外蒙)両軍が数ヵ月にわたって激戦を交えた。双方共に逐次兵力を増強し、日本軍は七月に歩兵主体の攻撃を実施したが失敗。一方、ジューコフが指揮するソ・蒙軍は、八月二十日航空機、戦車、装甲車、砲兵を大量に投入する包囲殲滅戦を敢行した。日本軍が初めて体験した本格的に機械化された近代戦であった。停戦協定成立の翌日、ソ連軍はポーランドに進軍を開始した」。


 ところで、ザイサン・トルゴイとは反対の丘の上に、2001年10月15日に日本人死亡者慰霊碑が建立された。厚生労働省戦没者慰霊事業の一環として、1973年以来海外に建立された戦没者慰霊碑の14ヶ所目としてである。戦後抑留され、強制労働に従事し、死んでいった旧日本兵などの遺骨が葬られている。ザイサン・トルゴイとは違い、訪れる人もなく、丘の上にあり街からよく見えるにもかかわらず、モンゴル人が知らないため、なかなか場所がわからなかった。日本・モンゴル友好の象徴として、市街地を日本とモンゴルの国旗が描かれたバスが走っているが、その日の丸ははげてわからなくなってきている。ここにも、表面化していない「歴史認識」の問題があるのかもしれない。

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