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『海域から見た歴史-インド洋と地中海を結ぶ交流史』家島彦一(名古屋大学出版会)

海域から見た歴史-インド洋と地中海を結ぶ交流史

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 「フー」、この本の読後感は、このなんとも言えぬ一言に尽きる。読んでも読んでも終わらない本をやっと読み終えたという充足感と、その内容を共有できたといううれしさと感謝の気持ち、そしてこの1000頁近い「重さ」(もちろん物理的だけでなく、内容的に)からの解放等々、考え出したら、この「フー」の意味がわからなくなってしまった。


 すでに好著『イスラム世界の成立と国際商業』(岩波書店、1991年)と『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)を出版している著者、家島彦一が、この大部の本でなにを言おうとしているのか、最初はわからなかった。ただたんに、これまで書いてきたものを1冊にまとめただけなのかとも思った。あまりにも大部になったせいか、繰り返しも散見された。しかし、それはわたしの浅薄な考えだったことが、全部を読み終えて、改めて「はじめに」「序章」を読んでわかった。


 本書は、歴史研究の基本を問い、海から見ることの重要性を指摘し、そして、対象とする地域と時代を明確にしている。つまり、自分の研究テーマを相対化したうえで、本書をまとめているのである。既発表論文を、新たな大きな枠組みのなかにあてはめ、書き直すことは容易なことではない。だから、大抵の研究者は還暦記念だの、退任記念などといって、既発表論文をまとめただけの論文集を出版することになる。本書は、「採録するにあたっては、いずれも大幅な修正をおこない、新たな情報・史料を補足している」という。ということは、今後も著者の新たな成果が期待できるということだ。わたしが、読後感で「うれしくなった」のは、その期待が読みとれたからでもある。


 歴史研究の基本を問うことについて、著者は「はじめに」でつぎのように書いている。「歴史研究は、あくまでも資史料を「読み」「解く」ことによる、具体的・実証的な個別研究にもとづいているが、同時にそうした研究による個々の国・地域やテーマの研究が、より広い視野から比較・検討されるなかで、時間と空間を貫く「共通枠」「関連性」や、ある種の「一体性」を取り出す使命を負っていると、私は考えている。そのためには、従来とは異なる新たな枠組み・視点を模索することが必要となるが、資史料を「読み」「解く」ときにも同様に、新たな枠組み・視点を用いることで、従来にない史実が描き出されてくるのである。この意味において、両者は共同作業のなかで進められるべきものであろう。私は、本書の研究において、とくに①新たな枠組み・視点を設定すること、②現地での調査・研究を重視すること、③これまでにない海域交流史の研究を進めるために、海域史研究に相応しい新しい資史料の発見に努めること、の三つの点に留意した」。


 ①の新たな枠組み・視点というのは、「陸域(陸の領域国家)を越えたところに形成される一つの全体として機能する歴史的世界、すなわち海域世界を設定し、さらにインド洋と地中海の二つの海域世界を一つに捉える「大海域世界」論の提唱を試みた」ということである。近年、「海域史」や「海洋史観」ということばが、高等学校世界史教科書にも見られるようになってきた。しかし、その意味がわかっている研究者は、それほど多くはいないだろう。著者は、そのあたりのことも充分承知で、つぎのように自らの立場を明確に述べている。「海(海域)の歴史を見る見方には、陸(陸域)から海を見る、陸と海との相互の関係を見る、海から陸を見る、海そのものを一つの歴史的世界として捉えたうえで、その世界のあり方(域内関係)、他との関係(海域外や陸域世界との関係)を見る、などのさまざまな立場が考えられる。私の研究上の立場は、それらのうちの最後にあげたように、陸(陸域)から海(海域)中心へと歴史の視点を移すことによって、海そのものを一つの歴史的世界として捉えること、そして海域世界の一体性とその自立的な機能に着目すること、さらには海域世界から陸域世界を逆照射(相対化)することにあるといえる」。海とのかかわりから、ちょっと目新しさを感じて書いた「ニセ海域史」とはまったく違う、ほんものの研究がここにある。


 ②の「現地での調査・研究を重視すること」について、著者は「あとがき」で「各地を旅し、イスラーム世界の自然・社会・文化の現場に身を置き、現場から考えるという「現地学」を心がけてきた」と述べている。本書から著者は優れたフィールドワーカーでもあることがよくわかり、本書は優れた「地域研究」書でもある。このように優れた「地域研究」書が出ると、「地域研究」を専門としていると自負している研究者は、それを越えるために文書研究にも精を出さなければならなくなるだろう。本書を越えるものが出なければ、新しい学問としての「地域研究」の存在意味が問われることになる。


 ③の「新しい資史料の発見に努める」については、本書の最後の第Ⅶ部第1~3章で、「これまで誰にも注目されてこなかった未刊行のアラビア語写本」が紹介されている。とともに、著者はたいへんな仕事をしている。「一四世紀前半の大旅行家イブン・バットゥータの旅の記録『大旅行記』の研究」に取り組み、「新しい校訂本の作成と翻訳・注釈本」8巻本を刊行したことである(「東洋文庫平凡社、2002年)。こういう仕事は、すぐに共同研究で、という発想が出てくるが、結局は個人でコツコツやることが基本となる。ほんとうに「すごい!」としか、言いようがない仕事である。


 本書が考察の対象とした時代は、「大海域世界がその姿を具体的に現してきた七世紀後半にはじまるイスラーム世界の形成期から、西アジアを中間媒体としてダイナミックに機能していた大海域世界の全体が相互依存の形で交流する機能を徐々に失って、インド洋海域世界、さらにはそれぞれの小海域に分節する傾向を強める一方、西ヨーロッパ諸国を新たな軸心として、全世界の海域にまたがる西ヨーロッパの近代世界システム(陸域支配システム)が伸張していく一七世紀末まで」としている。本書では、陸域中心の時代区分や地域区分は消え失せ、断絶より連続した時代の流れ、地域のつながりが読みとれる。また、「インド洋と地中海を結ぶ」だけでなく、中国まで繋がる海域ネットワークが見えてくる。ただ、研究蓄積のある「インド洋研究」や「地中海研究」とは違い、蓄積の乏しい海域東南アジアとを結ぶ研究は弱い。「大海域世界」の研究のためには、周辺海域を含めさらなる具体的・実証的研究の積み重ねが必要だろう。


 本書では、最近はやりの「地域研究」や「空間」ということばは使わず、「歴史的世界」や「現地学」ということばが使われている。「地域研究」とはなにか、「空間」とはなにかが、具体的な研究成果を充分に示すことなく議論されて久しいが、議論よりこのような優れた「地域研究」書や「空間」論の書を出すことを先であろう。あるいは、具体的な成果を出すための議論をすべきだろう。「ニセ科学」が横行した結果、情報番組の捏造がおこった。「陸域に残る断片的な情報の糸をつなぎ合わせ、一枚の布を織り上げるように、一つの歴史現象としての姿を海域世界のなかに浮かび上がらせる」海域世界の歴史は、勝手な空想に基づく生半可な研究による「ニセ海域史」が横行する危険性がある。著者の研究は、「断片的な情報」をひとつひとつ基本から考察し、専門書を出版し、資料集を編纂するなど研究工具を充実させて、はじめて新たな研究に挑戦できることを如実に示している。


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