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『インドネシアと日本-桐島正也回想録』倉沢愛子(論創社)

インドネシアと日本-桐島正也回想録

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 1960年代のインドネシアと日本との関係といえば、賠償ビジネスをめぐって汚職の噂が飛びかい、かかわった人びとが謎の死を遂げたり、心身に異常をきたしたりしたことが語られ、深田祐介の小説『神鷲(ガルーダ)商人』(新潮社、1986年)の題材にもなった。その主人公富永のモデルとなったのが、本書で回想を語る桐島正也で、深田の暁星小学校の同級生でもある。


 本書は、インドネシア現代史を専門とする著者、倉沢愛子が、1995年以来桐島氏を何度も訪ね、聞き書きしてまとめたものである。著者は、「まえがき」で「この回想録はサクセス・ストーリーではない。かといって苦労を重ねた日本人の苦労話などでは毛頭ない」と述べ、「桐島氏はその人生を気負いもなく淡々と語る」「その何でもない語りの一つひとつに日本とインドネシアの過去五〇年の歴史が生き生きと刻み込まれていて、われわれ歴史を追うものとして興奮を禁じえない」と、その重要性を強調している。


 著者の興奮は、多少なりとも1960年代のインドネシア、そして日本との関係を知っている者にとって、よく理解できる。なぜ、東日貿易や木下商店のような、一般には知られていない小さな商社が賠償ビジネスにからんだのか、東日貿易がジャカルタの独立記念塔の建設や巡礼船の手配などを受注することができたのか、不思議に思う人がいるかもしれない。そして、本書を読んだ人のなかには、「まともな」ビジネスではない、と嫌悪を感じた人がいるかもしれない。いっぽうで、日本の一流商社や企業が、なぜ自分たちで直接せずに、桐島氏を通じてインドネシアで事業を展開したのか疑問に思ったかもしれない。すべて、桐島氏が活躍する1960年からのインドネシアの歴史と、その背景にある社会や文化の理解抜きには、語れないことである。まさに著者は、この回想録をまとめるにあたって最適任者であり、本書がわかりやすいものになったのも著者の力量があってのことだといえる。


 それでも、本書を誤解して読む人がいるだろう。賄賂とコネがないとはじまらないインドネシアという国の「後進性」に嫌気を感じた人もいるだろう。だが、50年にわたってインドネシアの日本人を見てきた桐島氏は、「日本では常識で判断できることを、インドネシアでも常識を持って判断していただけたら幸いである」、「本書は別にインドネシアを一方的に擁護しているわけではない。長年にわたって私が見聞してきた真実だけを」語っているにすぎないという。つまり、インドネシアにはインドネシアの社会的ルールがあり、自分はそのルールに従って、インドネシアに骨を埋める覚悟でインドネシアのためにビジネスを展開してきた、本社での出世を夢見て腰掛けで来ている商社マンとは違う、といいたいのだろう。


 それが、昨今はそのインドネシアの社会的ルールが違ってきていると、つぎのように語っている。「私は半世紀をこの国で生きてきた。スカルノ大統領の時代、スハルト大統領の時代も、そしてその後の時代もすべて見てきた者として言うのだが、今のインドネシアはこれまでで一番ひどいと感じる。経済は一見好景気に見えるが、一皮むけば銀行なども、どれほど大量の不良債権を抱えているか知れたものではない。物価はどんどん上昇する。毎日の食に困る人がたくさんいる一方で、すさまじい腐敗や汚職疑惑が連日のように報道される」。


 そして、昔インドネシアの知人に言われたつぎのことばを、自分が乗り越えることができたかどうか、この回想録を通じて振り返っている。「日本人は、例えればインドネシアという川の底にある砂利だ。それに対し、中国人は苔、白人は岩だ。嵐がくれば、小砂利は全部なくなる。しかし岩と苔は、残る」。「今日、日本とインドネシアの関係は太く、強いものとなり、日本人・インドネシア人を問わず両国の間に立って日々活躍しておられる方々は数知れない。しかしだからこそ、自分たちの関係が互いにとって、嵐の後になお残る苔むす岩になったのか、改めて省みることも無駄ではあるまい」。


 この回想録で何気なく話されていることから、著者は「興奮を禁じえない」ものを感じた。それは、この回想録で語られなかったことを思い浮かべたからだろう。回想者の意図かどうかはわからないが、たとえば日本の政治家の名前は登場しない。それは、まだ日本人としての「自覚」が残っているためかもしれない、あるいは、かつて週刊誌で「スキャンダル」として取りあげられたことに懲りたためかもしれない。いずれにせよ、この回想録から、インドネシアと日本の「常識」が交差した1960年以降の関係を読み取った者は、これまで気にかかっていた「なぞ」が解けて、興奮を禁じえなかったことだろう。

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