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『ビルマ・ハイウェイ-中国とインドをつなぐ十字路』タンミンウー著、秋元由紀訳(白水社)

ビルマ・ハイウェイ-中国とインドをつなぐ十字路

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 こんな本が、東南アジア各国・地域の人、あるいは東南アジア出身の人によってもっとたくさん書かれれば、東南アジアのことがもっとよく理解してもらえるのに、とまず思った。つぎに、こんな本を書いてみたいとも思ったが、外国人研究者には書けないと思い直した。むしろ、外国人研究者だからこそ書けるものを考えるべきだと思った。


 まず、現在のビルマのことがわかると思って、本書を開いて不思議に思った。目次の後に、4葉(4頁)の地図があった。それぞれのタイトルが、「紀元前1世紀の中国、ビルマ、インド」「紀元前1世紀のビルマと近隣国」「17世紀のビルマと近隣国」「2011年のビルマと近隣国」だった。いったい、なんの本だ?、と思った。


 本書は、プロローグ、3部、エピローグからなる。第1部「裏口から入るアジア」では、ビルマの現状を、歴史と文化を踏まえて語っている。第2部「未開の南西部」では中国、第3部「インド世界のはずれ」ではインドを、それぞれビルマとの関係、歴史と文化を背景として語り、現在直面している問題の根底にあるものを探っている。


 本書の帯では、つぎのようにまとめている。「東は雲南(中国)、西はナガランド(インド)と国境を接するかつての「辺境」が今、空前の活況を呈している-。気鋭のビルマ史家が二大文明に挟まれた小国の歴史をたどり、自ら旅して「アジア最後のフロンティア」の実像に迫る」。


 著者タンミンウーは、つぎのように紹介されている。「歴史家。一九六六年生まれ。ハーバード大学卒業、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係大学院修了。ケンブリッジ大学にて博士号(歴史)取得。カンボジアや旧ユーゴスラビアの国連平和維持団や国連本部での勤務を経て、現在はヤンゴン・ヘリテージ・トラストの会長として歴史的建造物の保存に取り組むほか、ミャンマー大統領の国家経済社会諮問評議会の評議員や、ミャンマー平和センターの特別顧問なども務める。元国連事務総長のウー・タン(ウ・タント)は祖父にあたる」。


 訳者秋元由紀は、本書の大前提をつぎのようにおさえ、「訳者あとがき」で述べている。「中国とインドというアジアの二大文明に挟まれているその位置こそが、ビルマにとって最大の資産である。ビルマは、南アジアと東アジアをつなぐ活発な交差点として、自国だけでなく中国やインドの人びとにも恩恵をもたらす可能性を秘めている」。


 つぎに、帯に大書されている「アジアの「裏口」ミャンマービルマ)を知るための必読書」の「裏口」に引っかかった。著者は、第1部のタイトルを「裏口から入るアジア」としていることから、「裏口」にしたのだろうと思った。日本人にとっても、いちばん西の遠い東南アジアということで、わかりやすいだろうとも思った。しかし、アメリカで育ち、生活した著者にとって、「裏口」でもないだろうと思った。本書を読むと、著者は「イギリスは当初、ビルマが中国への裏口となることを期待していた」ということから、「裏口」という表現を使ったことがわかった。それでも、著者にとっては、「アジアへの入り口」だった。著者は、8歳のとき国連事務総長だった祖父の葬儀のために、初めてラングーンを訪れ、それからほぼ毎年ビルマに行くようになった。


 著者が歴史にこだわるのは、現在のビルマの国境が過去のものとはまったく違うことが、今日のミャンマーの問題の根底にあり、中国やインドとの関係にもそのことが大きく影響していると考えているからだ。著者は、つぎのように説明している。「今日、地図上ではインドとビルマ、中国は国境を接している。しかしイギリス支配が始まるまで、インドと中国それぞれの権力中枢の間に広がる高地地方はどの国の支配下にも入ったことがなかった。ビルマの王国も小さく、その周りには数千キロにわたり、どの国にも属さない民族が暮らす土地が広がっていた。それらは小さな領主国や部族で、上位の権力に忠誠を誓ってなどいなかった」。


 「イギリスはビルマで二つの対照的な統治方法を用いた。低地地方である「ビルマ本土(プロパー)」、つまりイラワディ川流域やそれに続く沿岸部では、イギリスは直接統治を行った。王政を廃止し、貴族や各地の有力一族を排除して、代わりにイギリス政府の公務員と現地採用の事務員を置いた」。


 「高地地方の扱いはまったく異なるものだった。イギリスはもとからいた世襲の藩主の一部(植民支配を拒否した者)を排除したが、ほかは残し、一部の藩主の権力を強化した。またビルマ以外の植民地と同様、地元の長や役人が仕切っていたやや秩序に欠ける行政を合理化し、体系化した。二十世紀には、シャン侯国は三四人の「ソーブワー」のもとに組織されていて、そのソーブワーたちは厳格な「優先順位」に従って序列が決まっていた。また山岳部には東のワや北のカチンなど、山奥の部族の長がいた。彼らはソーブワーより位が低かったが、イギリスは(忠誠と、歳入の一部と引き換えに)彼らの権力保持を認めたので、彼らの多くは以前と同じように営みを続けることができた」。「ビルマの低地地方が左翼政治やナショナリズムが渦巻いて騒然とした状態だったのに対し、高地地方はほぼ全域が平和だった」。


 その高地地域にたいして、ビルマ軍指導部は、「統合のゆるい連合国家の一部として少数民族居住地域に自治を認める連邦制という国のあり方自体にたいへんな嫌悪感を抱いていた。軍人として訓練されてきた彼らにとって、ビルマが民族ごとに分裂することは現実の脅威であり、考えられる最悪の悪夢だった」。


 このように考える裏には、長い歴史があることを、著者はつぎのように説明している。「ビルマ語は、もともと話されていたイラワディ川中流域から、セイロンの非常に保守的な上座部仏教に由来するビルマ仏教の流派とともに、数世紀かけて広がった。古い年代記に出てくるカンヤン人やピュー人、テッ人などは、進化するビルマ民族文化に吸収されていき、もはや存在しない。十八世紀にビルマ王国は、ラングーン周辺の古いモン語王国を併合し、モン人も縮小を続ける少数民族となった。ビルマ文化の辺境というものがあり、軍事政権はこの辺境を国のいちばん端まで広げたいと望んでいた」。


 現在、国境周辺に住む人びとの中には、つぎのような人がいることを、著者は紹介している。「公式の書類を持っていなくても問題なく国境を越え、中国国内を移動できた。またビルマ語とシャン語の名前に加え、中国語の名前さえ持つようになってもいた。「マンダレーではロンジーを着け、ビルマの音楽を聴いてくつろげる。シーボーではシャン人の友人に会い、シャン語でしゃべる。中国では、中国人は私のことを純粋な中国人だと思っている」。


このような人びとの暮らす地域は、ミャンマー側だけでなく、中国側にもインド側にも広がっている。そして、このような地域の平和と安定が保たれるかどうかによって、両極端の筋書きが考えられる。著者は、その鍵となる条件をつぎのように述べている。「ビルマが持つさらに重要な財産は、中国とインドの間にあるというその戦略的な位置で、まさにこれこそが今後、国全体にとって途方もなく有意義な機会をもたらす可能性がある。しかしその機会を活用して一般市民に恩恵をもたらすには、根本的な転換が必要だ。つまり、数十年続いた武力紛争を終わらせること。支配者層が、ビルマの民族的そして文化的な多様性を、単に対処するべき問題として扱うではなく、国にとって好ましいものとして見ようとすること、数世代にわたってビルマの政策を決定してきた排外主義に代わり、コスモポリタン精神が生まれること。そしておそらくもっとも重要なものとして、国民からの信用と信頼を受ける強く効果的な政府ができること」。


 長いタイムスパンと地域の特色をよくつかんだうえで展開される、ナショナルヒストリーを超えたビルマ史を堪能することができた。自分自身の足で現地を訪ね、未来を見据えて語られるだけに説得力があった。このような歴史が数多く語られ、地域も時代も重層することによって、地域史としての東南アジア史やインド史、中国史を叙述することが可能になるだろう。だが、本書に匹敵するものを、ほかの国や地域に求めることは容易いことではない。それだけに、本書は「ミャンマーを知るため」だけの必読書ではない。

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