『考証要集』大森 洋平(文春文庫)
「時代劇通になれる」
書物を刊行する者にとっては、校正者は頼みの綱である。400字詰原稿用紙でいえば、300枚以上ときには500枚を超える量を書いていると、念には念を入れたつもりでも思わぬところで、勘違いやケアレスミスがどうしてもでてくるからである。重要なところで間違いがあれば、読者も興ざめになるだろう。だから執筆者にとってはよき校正者に当たるかどうかは、かなり重要である。ドラマや映画などの映像では、書物における校正者にあたるものが考証担当者である。
とくに時代劇になれば、調度品、服装、風景など考証担当者にお世話にならなければならない。言葉遣いだってそうである。時代劇なのに「元気をもらった」とか「自信たっぷり」のような言葉が使われていれば、つくりものがすけてみえ、しらけてしまう。
そういえば、評者も時代劇を観ていて、これはちがうだろうと思ったことがよくある。たとえば、人気テレビドラマだった「必殺仕事人」では藤田まこと演じる中村主水が屋台で蕎麦を食べるシーンが定番だが、当時は屋台の食品は下層庶民のもの。主水は下級武士とはいえ、大小をさしている。とすれば、せめて手ぬぐいでほっかぶりぐらいはしているのではないか、とおもったものである。といっても時代劇は歴史そのものの再現ではなくフィクションである。だからまあいいのかとおもったのだが、歴史事実を知っている者にはどうしてもしこりは残る。
そう、時代劇は、元来、歴史事実に仮託されたフィクションであるから、時代劇に考証などいらないのではないか。そう思う向きもあるかもしれない。そこあたりについて著者は、こう言っている。たしかに、時代劇は歴史に仮託したファンタジーである。だから史実にこだわりすぎると面白くなくなる。しかし、架空の世界をよりそれらしく見せるためには、細部でできるだけ、史実に配慮することだ。「完全な史実ではないフィクションだからこそ考証は大事」「万物の根源はストーリーテリングであり、時代考証はその第一の僕(しもべ)である」という。まことに考証が厳密におこなわれることでドラマの虚実皮膜の厚みがでるというものである。
まあそんなご託宣はともかく、用語の解説がおもしろい。どのページからでも用語解説を読み始めるのがよい。時代劇によく出てくる「遠島・島帰り」のところにはこうある。町奉行が「遠島(島流し)〇年申し渡す!」というシーンに出くわすことがよくあるが、これは間違いという。遠島は終身刑、恩赦が無ければ帰ってこれないからである。また「おれは島帰りだ」と二の腕の縞の入れ墨を見せて凄む悪人が出てくるが、これも間違い。縞の入れ墨は「前科〇犯」の印だと解説されている。「鍋焼きうどん」のところでは、明治初期に大阪で考案され、東京の下町に普及したものとある。「鍋焼きうどんをつくるには大火力が必要で、屋台で大量に売りさばくのは難しい」からである。ある時代劇で鍋焼きを出すシーンがあり、著者が「必死に止めた」と制作現場のエピソードも添えられている。
また本書を現代語から引くこともできる。「いなや予感がする」は、時代劇ではどういうべきか。答えは「胸騒ぎがしてならぬ」。物の場合はいつから使われたが大事である。「草履」のところをひくと、すでに平安時代にあったということもわかる。どこから読んでも楽しめる用語集である。読んでいるうちに、時代劇通になったような気がしてくること必定である。
ところで、評者は、本書の著者といささかの縁がある。1996年1月から3月までの教育テレビ(いまのEテレ)の「NHK人間大学」という12回放映の企画(「立身出世と日本人」、のちに『立身出世主義』として世界思想社から刊行)で著者が担当ディレクターだった。雑談の折に、著者の博学ぶりにびっくりしたことを憶えている。趣味は古本屋を覘くことで、将来は考証関係の仕事にしたいと言っていた。念願かなって著者はその3年後に考証の仕事に就いた。しかし、考証という仕事は本を読んだり学者に聞けばよいというものではない。同時代を生きた人の体験談がかなり重要で、本書にはその薀蓄も語られている。その後、著者から本書のもとになる「ネタ帳」の複写を送付していただいたり、NHKの番組で著者の名前をみるようになった。考証と言えば、評者の世代では、司馬遼太郎も感服したという稲垣史生(1912~96)さん。評者は『映画評論』などの雑誌で氏のコラムを愛読したものである。著者に考証の神様稲垣さん再来の「胸騒ぎがする」元へ「予感」がするのである。