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『夏の朝の成層圏』池澤夏樹(中公文庫)

夏の朝の成層圏

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「文明は麻薬か?」

 「初心忘れるべからず」という言葉がある。どんな人にも大切であろうし、時として耳が痛い言葉でもある。人は誰でも変わっていくが、それが必ずしも良い方向であるとは限らない。また、例え良い方向に向っていても、忘れたくないもの、忘れてはいけないはずだったものを、どこかで落としてしまうことが多い。そんな時、「初心」に帰ってみるのも悪くない。

 作家にとって処女作とは何なのだろう。作家とて人である以上、時と共に考え方も作風も変わっていく。それでも最初の作品には、その人の原点のようなものが残っているのだろうか。そう考えた時ふと池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』が目にとまった。この作品は小説としては池澤の処女作であるが、彼は当時既に翻訳、評論、詩等で活躍していた。

 漂流して南太平洋の孤島に辿り着くとなると、まるで『ロビンソン・クルーソー』のようだが、似て非なるものだ。冒頭では「ぼく」がどうやら孤島で暮らし、出て行く手段はあるのだが、それを決めかねているという事実が分る。「ぼく」は世界の終わりには、何としてもこの島に来ると言う。なぜならこの島は世界の終わりを迎えるのに「いかにもふさわしい」からだ。文明社会にもし戻っても「島はどこまでもぼくについてまわる」と考えている。この島は、「ぼく」にとってどのような意味を持っているのだろう。

 第二章から、話者は「ぼく」から「彼」に代わる。現在この話を書いている「ぼく」にとって、漂流してから今に至るまでの時間に距離感を感じているのだろう。自分の過去を客観的に見つめたいという意図もあるのかもしれない。「彼」は波の写真を撮ろうとして、船尾から夜の海に落ちる。無人島に漂着するまでの「漂い」は奇妙な現実感がある。泳げない私にとって、体の回りに水があるというのは決して心地良い感じではないのだが(温泉を除いて)、なまぬるい臨場感がある。これは水温のせいだろうか。

 無人島で椰子の実、バナナ、貝等を食べながら生活する。ある時精霊の夢を見て、隣の島に行く事を決心する。その島は彼が漂着した島より大きいのだが、何と一軒の近代的な家がある。いつでも人が住めるようになっているが、「彼」はそこには住まず荒れ果てた小屋で暮らす。家はアル中の映画俳優、マイロン・キューナードのもので、療養のために一人でやってくる。二人の交流も興味深いが、マイロンの仲間が彼を連れて帰る時、「彼」は島に残る事を決心する。

 しばらくぶりに「文明」に触れた「彼」は、もうこの島を出なくてはならないと考える。精霊にも拒否されたようだ。文明と島は対立するものなのか。それを考えるために「彼」は残って記録を書き始める。それが終った時に島を出ようと思っている。だが文明社会に戻っても「彼」は以前の「彼」ではない。分っていながらも戻るしかない、悲しき文明人なのである。だが、「島はついてまわる」。そこに一抹の希望があり、苦しみもある。自然と人間という対立した図式ではなく、自然の中の人間とは何かという、人という種の根本的存在のあり方を感じさせてくれる、非常に五感に訴える作品である。池澤の独特の感性は、やはり既にこの作品において顕著なようだ。


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