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『癌とたわむれて』アナトール・ブロイヤード(宮下嶺夫訳)(晶文社)

癌とたわむれて

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「病の物語の支え方」

アナトール・ブロイヤードは、1920年に生まれ、『ニューヨークタイムズ』などで活躍した評論家・編集者です。1989年8月、彼は転移性前立腺癌と診断されました。この本は、それから翌1990年10月に彼が亡くなるまでの間に発表された文章を集めたものです。


ブロイヤードが病を生きるにあたってこだわったことは、自分の「スタイル」を持つことだと表現されています。「わたしの思うに、重病を病むすべての人にとって、自分の病気にたいする独自のスタイルを開発することが必要(略)です。病気が自分を卑小にし醜悪にしようとしている。そんなとき、おのれのスタイルにこだわることによってのみ、自分への愛想づかしを防ぐことができるのです」(p.45)。

独自の「スタイル」を開発するということの意味は、自分が「カッコいい」と思える物語をもって、その主人公として病から死に至るプロセスを生ききることだと考えられます。ブロイヤード自身の目指したスタイルは、一言でいえば、皮肉っぽく、しかしユーモアで病を笑いとばす主人公だといえるでしょう。この主人公は、病に立ち向かう優等生を演じるのを拒絶して、むしろ病の進行を皮肉っぽく見ています。しかし、その一方で、彼は、意気消沈したり、パニックに陥ったり、あるいは怒りを顕わにしたりするのを嫌っています。皮肉っぽくありながら、意気消沈やパニックなどに陥らないように、ウィットのきいたジョークをとばして、病を笑いとばすのです。ブロイヤードは、もし担当の泌尿器科医が「あなた、前立腺を酷使しましたね。すりきれた野球のボールみたいですよ」などといってくれたら、自分は満足するだろう、と述べています(p.73)。前立腺を酷使した(前立腺の分泌物は精液に関係しています)から癌になったなどというのは、いかにも素人の考えつきそうな物語で(それが「間違いだ」とは言いませんが)医師がそんなことを言うとは思えないものです。しかし、それでもウィットをきかせて、決してよくはならないだろう彼の前立腺を共に笑いとばしてくれたらいいのに、とブロイヤードは言っているのです。

この本の中には、ブロイヤードの親しい友人であるポール・ブレスローという作家の話がでてきます。ポールは、47歳で死ぬ前の3、4ヶ月間、長編小説を書くことにこだわりました。既に短編や随筆、評論も発表していたし、妻との共著で建築関係の本も出していたにもかかわらず、ポールは、長編小説を書かないと自分は失敗者になる、と公言していました。死を目前にして、痙攣の発作と麻酔薬の眠気に苦しめられながら、ベッドの上に吊り下げられた器械に向かって、彼は書き続けます。ところが、作品はどんどん拡大していき、ついに完成されることのないまま、ポールは逝ってしまいます。ブロイヤードは、長編小説を書くことがポールのスタイルにほかならない、と述べます。もしかすると、ポールは、執筆にとりくんでいるうちは死ぬことはないと、自分に見せかけていたのかもしれません。しかし、かりにそうだとしても、ポールは明確な自分の物語を演じてみせながら最後を生ききった、といえます。

しかし、その一方で、彼はポールについてこうも述べています。ひとつの物語を生ききるということは「観客がいるときにのみ表現できるものだ。わたしは思う。そばにだれもいないとき、病室にひとりでいるとき、彼は、ある詩人の言葉を借りれば、『窓のない壁のなかで荒れ狂う魂』だったのではないだろうか」(p.128)。これは、ブロイヤード自身にも関わる意味深長な部分です。物語の主人公を演じるためには、当然のことながら観客が必要です。観客には、何らかの形で物語にあわせることが語り手によって期待されます。ブロイヤードは、かつてジョークを交わしていた友人自分が病気になったとたんに神妙な接し方をしてくるようになったのが嫌だった、と繰り返し述べています(p.23, 101)。これは、友人(観客)たちが、ブロイヤードが演じたい物語(ウィットをきかせて病を笑い飛ばす主人公の物語)に非協力的だからです。このように、観客は、単に居合わせて物語を聞くというだけでなく、例えば、病を持つ人と共に病を笑いとばすといった形で、物語を助演することが語り手によって望まれるのです。しかし、その一方で、観客は、目の前で病を笑いとばしているのが唯一の彼でないこと、別の場面では「窓のない壁のなかで荒れ狂う魂」かもしれないことを忘れてはなりません。目の前で演じられる物語に協力的でありながら、そうではない他の物語の存在にも心を馳せる、そんな態度をブロイヤード自身も望んでいたのではないでしょうか。

これは、病の物語を支える仕方について、重要な指針を含んでいると思います。一言でまとめれば、病を持つ人の物語を共に楽しみながら、同時に、その物語の外側(あるいは、語られなかった物語、というべきでしょか)にも想像力を及ばせる、ということになります。しかし、これには難しさも伴うでしょう。例えば、観客は、語り手がどんな物語を語りたがっているかを察知して、助演の仕方をうまく考えなければなりませんし、その一方で、語られなかった物語の可能性も考慮にいれながら、どう振舞ってはまずいのかを考えていかなければなりません。

病の物語の語り手になる重要性とともに、それを支える仕方についても示唆を持つ一冊です。

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