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『差別論―偏見理論批判―』佐藤 裕(明石書店)

差別論―偏見理論批判―

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理論社会学の醍醐味」

今回は、私と富山大学で一緒に仕事をしている佐藤裕さんの研究をご紹介します。


佐藤さんの研究対象は差別です。ただし、ここでいう「差別」は、一般的にイメージされやすいものと必ずしも一致しません。

私たちが差別という言葉でイメージしやすいのは、社会的カテゴリーによる不当に異なった扱いを指すでしょう。例えば「男性と女性は均しい扱いを受けるべきなのにそうなっていない。これは差別だ」というふうにです(これを佐藤さんは「差異モデル」と呼びます)。このとき、差別をなくす方法はというと、告発を行い、権利をとりもどす、ということになるでしょう(これを佐藤さんは「人権論」アプローチと呼びます)。

*「社会的カテゴリー」は、「集団」に近い概念ですが、例えば「女性」のように実体的な社会集団でないものも含みます。

しかし、「社会的カテゴリーによる異なった扱い」を具体的に画定するのが困難な場合もありますし、告発によっておこる議論が、例えば、被告発者が偏見を持っていたか否か、といった不毛な論点に終始して混乱することも少なくありません。さらに、そのような議論の混乱を予測して告発自体が差し控えられること(泣き寝入り)もあると考えられます。これらの背後には、一つ一つの告発では解決しがたいような社会的カテゴリー間の非対称性(力関係に差があること)が存在しており、差異モデルではそのような根本的な非対称性がいかにしておこっているのかに目を向けることができないし、したがってそれに対してどのような手を講じればよいのかもわからないままである。このように佐藤さんは考えます。

つまり、この本の研究対象である「差別」は、上に述べたような社会的カテゴリー間の根本的な非対称性が生成し維持される仕組みないし現象を指します。差異モデルに基づく告発と「人権論」アプローチの意義と有効性は十分に認めたうえで、それを差別現象としてひとくくりに見てしまうのではなく、社会的カテゴリー間の根本的な非対称性を専ら明らかにする理論を鍛え上げるべきだ、というのが佐藤さんの立場なのです。

それでは、差異モデルとは異なる差別論は、具体的に「差別」をどのようにとらえるのでしょうか。その答えは、ある社会的カテゴリーを「他者」として見下す言語によって、その社会的カテゴリーに属さない「われわれ」をカテゴライズする行為として差別をとらえる、というものです。

例えば、次の仮想事例が挙げられています。

大学のある教室での出来事です。学生の一人であるBさんは授業中隣の人に話しかけてばっかりでほとんど先生の話を聞いていません。教員のAさんは何度か注意をするのですが、そのときはちょっと静かになるものの、しばらくするとまた話し出します。たまりかねたAさんは次のようにいってしまいます。

「B君、いったい何度いったらわかるんだ。君はつんぼなのかね」(『差別論』67-68ページ)

この仮想事例に対する佐藤さんの分析を、私なりに解説してみます。

Aさんは、Bさんがなかなか言うことをきかないのでたまりかねて、より劇的な効果を期待できる方法にうったえています。それは「話を聞かないことはダメなことなんだ」ということを、「つんぼ」という言葉の否定的ニュアンスを利用して端的に表そうとする、という方法です。これによって、「つんぼ」でない「われわれ」にBさんを同化しようとしているのです。そして、それを承認することで(例えば、教室に笑いがおこりBさんがあわてて黙った、など)その教室にいる者たちは「われわれ」に同化し、「つんぼ」を他者として見下す共犯者になる、といえます。

このケースで難しいのは、いわゆる状況のカラクリがわかっていないと、なかなか差別を無効化しにくい、という点です。かりに教室の中の一人が「先生、それは耳の聞こえない人に対する差別発言ではないですか」と告発をしたとしても、「そんなつもりで言ったのではない」と答えられて終わる可能性が少なくありません。この答えの背後には、偏見や差別意識を持っているのでないから差別ではないし、もののたとえでこの場にいない人のことを引きあいに出すぐらいは許されるだろう、という考えがあると思われます。(もちろん、ろう者の受講生――読唇術に長けていて、なおかつ聞こえにくい問題をあまり公にしたくないタイプの人――が交じっている、という可能性だって考えられます。その場合、彼・彼女は、一方では「つんぼ」でない「われわれ」に同化しつつも、もう一方では自分が「つんぼ」に該当するということを意識せざるをえず、非常につらい思いをするでしょう。)

この仮想事例からうかがえるように、差別する側は、偏見や差別意識を、必ずしも意識的に持っているとは限らず、むしろ主要な意図は、聞き手を「われわれ」に同化することにあります。しかし、聞き手が共犯者として巻き込まれることによって差別は達成され、被差別カテゴリーは何か実体的なものであるかのように見えてきます。このようにして、告発の対象として発見されにくいにも関わらず社会の中で重ねられる差別が、社会的カテゴリー間の根本的な非対称性を温存し、新たな差別へと連鎖する危険が生じる、と考えられるのです。しかし、こうしたカラクリが見えてくると、それを無効化するチャンスについても考えることができるようになります。この本では、著者自らが経験した「バイキン遊び」において、共犯者だった人が「われわれ」をあっという間に解体してしまった、という興味深い例が取り上げられています。

私がこの本を読んではじめて腑に落ちたことの一つは、差別語に関する考え方です。私はこの本を読むまで、特定の言葉を使うことがすなわち差別であり、その言葉を使わないことがすなわち解決である、と思っていました。実のところ、そのような考え方に若干の違和感を抱いていたのですが、もやもやとした感じを言語化することはできませんでした。しかし、大事なのは特定の言葉そのものではなく、その言葉を使って「われわれ」が構成される社会的なプロセスでありメカニズムの方だ、ということをこの本は教えてくれました。特定の言葉だけを使わないようにするということは、差別に根本的に向き合っている解決ではありません。

この本は、自分自身の論理的思考を武器にして理論を構築する醍醐味がストレートに伝わってきます。そうした知的格闘を通して、本当に大切な問題にこだわりぬき、新しい世界を開く一冊といえましょう。是非一度じっくり読んでいただきたいです。

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