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『南無阿弥陀仏』柳宗悦著(岩波文庫)

南無阿弥陀仏

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日本仏教のラディカル

 柳宗悦が晩年に書いた仏教入門書。入門書とはいっても、この本はいわば柳の思想の集大成ともいうべき作品であり、「柳宗悦入門」という性格をも持っている。


 柳宗悦は美の革命家である。ひとりの卓越した芸術家が生み出した作品ではなく、無名の職人がつくりだした品物のほうに高い価値を置いたからである。柳は民芸品をみて、「なるほどこれは美しい!」と思ったから、こういう価値の転倒をおこなったのではないだろう。この価値の転倒は、むしろ美のイデオロギーの転換の産物なのではなかったかと思う。

 同様に、他力本願系の仏教もまた、大きなイデオロギーの転換の産物であった。法然の浄土宗、それにつづく親鸞浄土真宗と一遍の時宗、それらはまさに日本思想史上にも類をみないほどの大転換だったということを筆者はこの本で知った。

 といっても、他力本願の考えは、なんらややこしい話ではない。善を修めることとか、写経をするとか、寺を建てるとか、施しをするとか、そういうことは必要ない。ただひたすらに南無阿弥陀仏と唱えなさいと教えるだけだ。難しい行為ではないから、これを「易行」という。易しい道があるからこそ「凡夫」である人間も救われる契機が生まれる。

 柳は、南無阿弥陀仏という「言葉の発見こそは、人類の思想史における最も驚くべき出来事の一つだといってよい」とまで言っている。宗教というものが、貧富を問わず、善人・悪人を問わず、信仰に厚い人も破戒の人も、能力のある人もそうでない人も、ひとしなみに救済するものであるならば、救われるために求められる行為は、だれにとっても易しいものでなければならないのは道理である。

 しかし、この理屈はかならずしも私たちの日常的な論理とは違う。苦しくも厳しい努力を成し遂げた者のみが救われると私たちは思っているからだ。その日常的な論理を百八十度転換して、南無阿弥陀仏と唱えるさいの「思い」の深さにのみ重きを置いたことが、これらの仏教の革命的なところだったのである。

 柳宗悦にとって、こうした考え方は、みずからの民芸運動の根拠ともなっていった。柳は問う。偉い芸術家にならなければ、美しいものは生めないとなると、職人には何も期待ができなくなるが、しかし、じっさいには無名の職人が美しく気品のある品物を作り上げてしまう。なぜか。

凡夫たる工人からどうして成仏している品物が生まれてくるのか。仕事を見ていると、そこには心と手との数限りない反復があることが分る。有難いことにこの繰返しは才能の差異を消滅させる。下手でも下手でなくなる。この繰返しで品物は浄土につれてゆかれる。この働きこそは、念々の念仏と同じ不思議を生む。(中略)考えると工人たちは識らずして称名をしながら仕事をしているともいえる。焼物師が轆轤を何回も何回も回すその音は、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といっている音である。

 「易行」を基本とする他力本願の思想は、このようにして柳の民芸運動の問題と重なっていくのであるが、柳という人間を、特権層ではなく一般民衆の救済を目指していた人とのみ考えるなら、彼は大正デモクラシー時代が生み出したひとりの人道主義者にすぎないとのみ映るかもしれない。しかし、柳の見ているものはさらにその先にある。

 南無阿弥陀仏と唱えると浄土に行けるのでこの六字を唱える、と私たちは考えがちである。しかし、そもそも念仏において、その程度の理解だけでは、まだまだ思想的には十分ではないというのだ。「これこれの行為をしたら、こういう結果が待っている」というような思考の仕方は、まだこの世の中をみずからが制御できると思っていることになるからである。他力本願では、ただひたすらに自分が卑小であるという認識からスタートする。小さいからこそ絶対的に他力を恃むのである。そして、自己を極小にしていったその先には、祈る自分というものさえ否定される地点、さらには祈る者と祈られる者という主体と客体の区別が解体する境地があるというのだ。そのことを柳は、「念仏が念仏する」という境地、というような言い方をしている。

 「念仏が念仏する」とはちょっと難しい言い方だが、柳の民芸運動になぞらえていえば、名もなき職人が、立派な作品を作ろうなどというこざかしい考え方などもつことなく、無心に轆轤を回し、自分が作品を作っているのだか、それとも誰かが自分に作品を作らせているのかわからないぐらいの境地にまで達して、柳の考える「下手でも下手でなくなる」民芸の美は生まれるということなのだろう。

 「下手でも下手でなくなる」といい、「念仏が念仏する」という言い方といい、仏教の思想は、下手と上手、主体と客体、善と悪、美と醜というふうな二元論的な世界を超えたラディカルなビジョンを提示しようとしている。現世は、二元論的な世界である。畢竟、それは価値というものが差異によってしか生産されない相対的な世界である。しかし、宗教が「すべてのもの」を救うのであれば、「差異」などを認めてはいけないのだ。

 こういう考え方が端的に現れている部分を、西方浄土という考えについて説明したところから引用してみよう。「西」とはどこかという問いにたいして、柳は「西方があって、そこを浄土といったのではなく、むしろ往くべき浄土の位を、かりに西方と呼んだと見てよい」と述べたあと、こんなふうに言う。

「西方」が立派な一つの宗教的教義たるためには、そこに何か絶対の意味がなければならぬ。…もしそうなら西は単に東に対する西というが如き粗笨なものではあるまい。西が東でないとか、西のみが西だというなら、相対の西に過ぎまい。…絶対の西なら東を向くもそこに西がなければならぬ。何処を向くも、向くところ一切が西だという意味があってよい。…真に浄土を求むる者にとって、行く手は、皆西であるはずである。東も西、南も西、北も西である。もし東に向いてそこに西がなくば、浄土を切に求めている者の理解とはいえぬ。

 なんという論理だろう。ここには言語哲学が教えることとはまったく違うことが書いてある。言語哲学が教えるのは東に対してしか西は存在しないということだからだ。世の中には、禅問答みたいな、という言い方があるが、まさにそれだ。だが、「浄土を切に求める」という「心」があれば、東も西、南も西、北も西、と柳は敢えて断言するのである。そこには民芸品を「下手でも下手でない」と見る世界観に通じるものがあるように思う。言い換えれば、彼が民芸運動と仏教を通じてめざしていたのは、ことばを超えた世界、西洋的な「知」の彼岸ではなかったか。民芸運動という実践的活動をつづけながら仏教に学んだ柳宗悦が、どんなに遠く深い地点まで歩いていくことができたのか、ということに筆者は驚きを禁じえない。

 今回はずいぶんと硬い話になってしまって恐縮である。さいごに少しは身近な話題をひとつ書いておく。世界ボクシングチャンピオンの輪島功一の話である。輪島は引退後、団子屋をはじめたときに、こんなことを言っていた。団子を作るなんてことは誰にでもできることと他人は言うかもしれない。しかし、自分のような何も才能を持たぬ人間には、団子を作るという簡単な行為を毎日繰り返していくことが大事なのだ、と。輪島の団子作りとは、工人が轆轤を回すことに等しい。そして、輪島の「心と手との数限りない反復」もまた、南無阿弥陀仏と祈ることに等しいことのように思われる。

 南無阿弥陀仏という言葉を私たちはお葬式のときぐらいにしか口にしなくなった。しかし、この本を読んでいると、南無阿弥陀仏の考え方は、ここにも、あそこにも、といろいろなところに確認できるように思われてくる。自分や他人の死に直面するとき、あるいは労働の現場でも。自分が小さな存在にすぎないと思う瞬間があるかぎり、南無阿弥陀仏の祈りはこの世から消えることがない。


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