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『逝かない身体――ALS的日常を生きる』川口有美子(医学書院)

逝かない身体――ALS的日常を生きる

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エスノグラフィーに触発される気づき――ALSのコミュニケーション論――」

私は2007年から、ALSの患者会である日本ALS協会の方々とも縁あってお付き合いをさせていただいています。今回はその一人である川口有美子さんの本をご紹介します。



川口さんのお母さんの病名がALSと確定したのは1995年8月、当時62歳のことです。進行はきわめて早く、同年12月には救急入院のうえ気管切開と胃ろう造設を行い、人工呼吸器を着けて自宅での生活へと移ります。この本には、その経過が詳細に綴られています。「あとがき」では「けっこうたくさんいる同じような家族の心模様を私小説のように描きたかった」とあるように、著者個人の体験を豊かな言葉で表現することを通して、家族介護者の経験と心理、あるいはその他の社会的なテーマへと読者を導く内容になっています。その意味で、この本は優れた自己エスノグラフィー(autoethnography)としてとらえられるでしょう。

(*ALSについては当ブログの2008年10月23日および2008年12月30日のエントリーもご覧いただければ幸いです。)

それらテーマの中から、今回は「コミュニケーション」にスポットをあててみたいと思います。ALSは、全身の筋肉を動かせなくなっていくので、意思を伝えることも困難になります。そうした中で、体の中のどこか動くところを利用してコミュニケーションをとる方法があります。例えば、介助者と向かい合って「文字盤」(透明なプレートの上に五十音などが書いてあるもの)を間で動かしてもらい、視線があうところの文字を拾う方法や、指や顔などのわずかな動きを察知するスイッチを付けて、それを操りながらパソコンに文字を入力していく方法などがあります。しかし、病状が進行すると、そうした方法も通用しなくなり、やがて、まったく外部に意思を示さない様相を呈する状態に至るケースもあります(このような状態はTLS(Totally Locked-in State)と呼ばれています)。

川口さんのお母さんもそのようなプロセスをたどったため、川口さんはたいへんに悩みます。母は言いたいことも伝えられず、苦しくて不幸のどん底なのではないだろうか、と。しかし、多くのALS患者との交流の中で、川口さんはコミュニケーションが持つ(なかなか気づかれない)一つの側面について興味深い洞察を得ています。

例えば、橋本操さんの場合は、ヘルパーが順に読み上げる音を瞬きで指示して確定します。もし「ね」を選ぶのであれば、「あ、か、さ、た、な…」の「な」で瞬き、次に「な、に、ぬ、ね…」の「ね」で瞬き。こうして一文字一文字を拾って行って単語を完成させるわけです。日常生活に関するやりとりならそれで十分かもしれませんが、議論や交渉のような複雑なやりとりでは時間がかかりすぎるきらいがあります。そこで信用のおける「意訳者」が選ばれて、短い言葉から発話内容を推測し長い文章にして相手に伝えることになります。川口さんも「意訳者」を務める一人なのですが、自分は橋本さんの意図をどの程度正確に伝えられているだろうか、と疑問を感じます。

たまに意訳しすぎて彼女の意図していないことまで言ってしまうこともあるかもしれない。そんなときも橋本さんは、にやっと笑うだけ。普通の人なら、自分の考えと違った内容が少しでも混じって伝えられたりすれば怒ったり焦ったりするだろうが、そうしても空しくなるばかりなので、とうに諦めているのだろう。(『逝かない身体』209-210ページ)

ただ、その一方で、橋本さんが思うように正確に伝えられない悔しさをにじませた、というエピソードも紹介されています(同書210ページ)。こうした部分を軽く見ることはできませんが、それでも、自分の言いたいことを正確に伝えることにこだわりすぎない「意味の生成さえ委ねる生き方」(同書210ページ)もあるのかもしれない、と川口さんは考えます。

考えてみれば、日常的な会話の中で、自分の言ったことを相手が取り違えたと気づくことはしばしばあります。しかし、それに必ずしもこだわらず、むしろ「ま、いいか」とあきらめることで、その後の会話の中の展開を楽しむことができる。こんな経験を、誰しも持っているのではないでしょうか。しかし、私たちは、いざ「コミュニケーション」を考えようとすると、ついついそうした部分を忘れてしまって、「自分の意思を正確に伝えられるかどうか」という尺度でのみ評価してしまいがちなように思います。

櫻場猛さんの場合は、ヘルパーが閉じている瞼をそっと開けて、眼球の動きで「Yes/No」を読みとります。

男性ヘルパーが櫻場さんに呼びかける。

「櫻場さーん。女性が今ここにいます。たしか奇麗な人は好きでしたよねー」

 ヘルパーは櫻場さんの眼前にかざした人差し指をゆっくり動かして、瞳がわずかに揺れるのを確かめた。

「(櫻場さんは)『そうだ』と言っています」

(中略)

私たちの返事を待つ姿勢になったので、こう聞いてみた。

「奥さんはどこですか? 今日はご一緒ではないのですか?」

 ヘルパーが櫻場さんの代わりに「妻は、ここには来ていません」と答えながら、再び人差し指を櫻場さんの目の上でゆっくり動かし、本人に確認する。

「今がチャンスです、と言っています」

 そのとき櫻場さんがにやっと笑ったように見えた。近くで聞いていた人たちも声をあげて笑った。(同書214-215ページ)

櫻場さんの意思が正確に伝わっているかどうかという尺度だけでみれば、これが果たして「コミュニケーション」といえるのかわかりません。しかし、「意味の生成さえ委ねる」楽しみが櫻場さんに感じられていたとしたら、どうでしょうか。ここには立派に「コミュニケーション」が成立している、といえるように思えます。

もちろん、櫻場さんのような立場にある人が、いつでも「意味の生成さえ委ねる」楽しみばかり感じるとは限りません。「ええい! 私の言いたいのはそんなことじゃない!!」と腹が立つこともあるかもしれない。けれども、やはりそうした楽しみを感じるチャンスが少しでもある限り、そこに希望を託したコミュニケーションが積極的に行われる意義は十分にあると考えられます。つまり、周りの者が、本人が本当に言いたいことについて一方では気にしつつも、他方では身体を大胆に解釈して意味を生成させ、その場を積極的に楽しむ、そして望むらくは本人もコミュニケーションを楽しめる状態であってほしいと願う――こうした関わり方を「無意味で空しい」ということは決してできないように思えてくるのです。

ALSの人を交えたやりとりは、私たちが「コミュニケーション」について偏ったイメージを抱きがちであることに気づかせてくれます。ひとつひとつの出来事の微細な描写からそうした気づきが触発されるところが、まさにエスノグラフィーの醍醐味なのだろうと思います。今回は「コミュニケーション」について取り上げましたが、この本には、他にもさまざまな<気づきの種>が含まれています。ALSに少しでも関心のある方には是非お勧めしたい一冊です。

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