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『反コミュニケーション』奥村隆(弘文堂)

反コミュニケーション

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「「よい」コミュニケーションをイメージする功罪」

「私はコミュニケーションが嫌いだ。できれば人と会いたくない。ひとりでいたい。電話もメールもしたくない・・・・」。こんな意外な(あるいは、図星を突いた)言葉で、この本は始まります。著者の奥村隆さんは、立教大学社会学部教授。以前、私が千葉大学文学部に助手として勤めていたときに同僚(先輩)としてたいへんお世話になった方です。「あとがき」によると、この本は、立教大学での「自己と他者の社会学」および上智大学での「コミュニケーションの社会学」という講義に論文を織り込んで作られたものです。コミュニケーションが嫌いで仕方のない(でもコミュニケーション抜きには生きていけない)著者が、さまざまな社会学者や思想家などを訪ねて歩き、議論してまわるというユニークな設定が施されています。

このような設定であるため、おおよそ一章ごとに一人ないし二人の人物の「コミュニケーション」に関する見方・考え方が読み切れるようにまとめられているのが特徴になっています。ジャン=ジャック・ルソー(第1章)から始まって、ゲオルグジンメル(第2章)、ユルゲン・ハーバーマス鶴見俊輔(第3章)、ロナルド・D・レインとジャン=ポール・サルトルおよびグレゴリー・ベイトソン(第4~5および10章)、ルネ・ジラール(第6章)、アーヴィング・ゴフマン(第7~8章)、ニコラス・ルーマン(第9章)、アンソニー・ギデンズ(第11章、ただし精確には著者はギデンズを訪問はせず学生のレポートを通して知るという設定)。いずれの人も、多作で、高度に複雑な論を展開した先達(社会学では「超」のつく有名人)であり、しかも日本語訳の難しさもあって、読みこなすのは至難です。ところが、それらを奥村さんは、難しさを感じさせない明快さと平易さで次々と紹介していきます。おそらくこれは、ともすれば大学生に敬遠されがちな複雑な理論を授業で噛み砕いて説明しようとした苦闘の賜物ではないかと思います。そのため、「これらの人たちの名前は聞いたことはあるけど著作を読むには至らなかった」とか「一度読んでみようとしたけど、難しくて頓挫した」といった人にお勧めできます。

さて、それらの人々を著者は訪ね歩きながら、眼を開かれると同時に(逆に)さまざまな違和感や疑問も抱いていきます。読むうちに浮かび上がってくるのは、どの社会学者や思想家も、それぞれの時代情況や問題関心のもとで、何らかの形で「よい」コミュニケーションを探求したり、あるいはそれについて考えさせてくれたりするが、どのようなコミュニケーションも決して万能で完全無欠とはいえない、ということです。たとえばルソー(第1章)の場合、「気取った言語」や「人を欺くような服装」、あるいは社交上の「演技」や「礼儀」を一切排して、「純粋に意識と意識を提示しあうこと」あるいは「水晶のような透明な心」同士のコミュニケーションを希求しています。このようなことをルソーが言う背景には、18世紀ヨーロッパにおいて、社交を駆使しながら貴族たちが社会を治めていくやり方に対して、むしろ「同じ人間」同士の関係のもとに社会を構想したいという問題関心があったのではないかと思われます。そのため、余計な障害をとりはらった純粋で直接的なコミュニケーションをルソーは望んだのでしょう。現在の私たちの生活においても、さまざまな立場や属性を超えて一個の人間同士としてすべてをさらけ出してコミュニケートすればよいと思えるような場面では、これは魅力的な考え方であるような気がします。ただ、そうした場面でなければ、「演技」や「礼儀」などを一切脱ぎ捨てて相手とコミュニケーションをとるというのは、かえって息苦しい部分もあるでしょう。

このようにしてみると、次のことに思い当たります。私たちが「コミュニケーション」について何か問題意識をもったり考えたりするとき、たいていは「こういうコミュニケーションが『よい』コミュニケーションなんだ」という想定が避けがたく付いてくるが、実際のところどのようなコミュニケーションにもそれぞれ難点はあるのかもしれない、ということです。

以前のこのブログ(2010年1月)で、全身の筋肉を動かせなくなっていくにつれて意思を伝えることも困難になるALSのコミュニケーションについて考えたことがありました。現在では、文字盤やパソコン等を介してコミュニケーションをとる方法が少しずつ発達しているので、「まったくコミュニケーションがとれなくなる」と悲観する必要はありません。ただ、それでも、以前と同じようなコミュニケーションはできず、何らかの形でコミュニケーション・イメージを転換する必要に迫られる局面が出てきます。先ほど挙げた2010年1月のブログでは、櫻場さんの例を引用したくだりで、(A)「意思を正確に伝えあうコミュニケーション」を前提とすると虚しくなってしまうかもしれないが、(B)「意味の生成を委ねてつながるコミュニケーション」を想定すれば、楽しみもあるし、張り合いも出るのではないかと私は述べています。そこには、「ALSが進行すればコミュニケーションがとれなくなるので、生きている意味がない」と嘆く人に対しては、「よいコミュニケーション」のイメージを(A)から(B)へ転換してはどうでしょうか、という提案が暗に含まれていると考えられます。

しかし、では(B)には難点はないのかというと、少し考えさせられるところもあります。例えば、パソコンで意思伝達する患者さんを交えて集会を行っていると、その場の話に反応して患者さんが何かをパソコンに入力し始めるときがあります。通常の会話では、相手が何かを話し始めると相手はおしまいのサインを察知するまで待っている(それが会話の順番に関するルール)ものですが、この場合、私の感覚からしても、待っている間が非常に長く感じられてしまうのです。集会には他にも参加者がいるし、その人たちの間では他に話したいことがたくさんある。かくして、患者さんの入力が終わるまでの間、別の会話が進行することになります。多くの場合、入力が終了したのを誰かが察知して、皆に注目を促し、入力された文章を読むか、パソコンに読み上げさせ、皆で過去の話題に立ち戻って「なるほどね」「そうだね」などと言いながら、それぞれが思ったことをさらに交換します。そんなとき、私は、やりとりの実質的な内容よりも、パソコンで意思伝達する患者さんとやりとりが成立していること自体に、言い換えれば患者さんとつながっているという感覚に、何ともいえない充足を感じます。ただ、率直なところ、それと同時にコミュニケーションのテンポと様式のどうしようもないまでの隔たりも感じるのです。もし患者さんの側にもっといろいろ言いたいことがあったとしたら、さぞかしもどかしいだろうな、と。

上の例は、(B)のコミュニケーション・イメージに付きまとう困難を示しているように思われます。つまり、私たちは、ALS患者に対しては(A)ではなく(B)もいいですよとさらりと提案できるかもしれませんが、その実、私たち自身がいつでも(B)を大切に過ごしているわけではなく、またそうできるわけでもないように思われるのです。本当に(B)を大切にしたいなら、患者さんの入力が終わるまで、つながりの心地よさを実感しながらぼうっと待っていればよい。しかし、他の参加者とのコミュニケーションも無視できません。上の例では、入力の終了を察知した人が皆の気を引きつけることで、何とかバランスをとっています。しかし、そのようにする余裕が誰にもなかったとしたら、どうなるでしょうか。患者は会話からおいてきぼりとなり、(B)に心地よさなど感じられなくなってしまうでしょう。このように考えると、そもそもALS患者は、孤高の個人として(A)から(B)へ転換できるものではなく、周囲の人々の協力があって初めて、一種の共同作業のようにして、そうした転換を図っていくものだと考えるべきかもしれません。

このように私自身の特殊な関心にひきつけて考えてみましたが、おそらく私たちがコミュニケーションを意識化する(せざるをえない)場面は、いろいろとあるのだろうと思います。そこでは、「よい」コミュニケーションのイメージを変えた方が楽になれるということもありうるし、しかし変えればすべて片づくということはないかもしれない。そこにこそ、この本が投げかけるメッセージがあるように思います。先達と著者との議論は、読者に対して、コミュニケーションに関する感性を研ぎ澄まし、言語化するためのヒントを与えてくれることでしょう。

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