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『「若者」とは誰か――アイデンティティの30年』浅野智彦(河出書房新社)

「若者」とは誰か――アイデンティティの30年

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「「若者」を<印象>だけで語らないために」

いつもよく耳にしてきた「最近の若者は・・」という言葉。あまりに素朴なものは「そりゃ年寄りの愚痴ってもんでしょ」などと退けることができても、もう少し洗練された議論であればどうでしょうか。いわく、携帯電話ばかりいじっているから生身の人間同士のコミュニケーションが不足している、テレビばかり見ているから人間の生死に関するリアリティがない、だから本当に人を刺してしまう子が現れる、だから若者の自我には未発達なところがある、等々。こうした言い方には、ある種の胡散臭さがつきまといます。かといって、現実に若い人の行動や考えはよくわからないところがあると思っている人であれば、言われていることを100%捨てきれるわけではなく、つい興味をもって聞いてしまったり、あるいは自分自身の「若者」イメージを補強したりするのではないでしょうか。つまり、特に中高年齢層にとって、「若者」に関するさまざまな語られ方は<信じるに値しないけれども、かといってどう扱ってよいのかわからない(だから時に都合よく利用してしまう)>という類のものではないかと思います。

そのような語られ方をどう扱えばよいのか、私が思うに、社会学はこの点について有効な二つの思考様式をもっていますが、今回紹介するこの本は、それらの思考様式を上手に組み込んでいます。

ひとつめの社会学的思考様式は、「若者」について語る言葉自体を現象の一部分としてとらえる思考様式です。私たちはしばしば、<事実>としての若者の性質や傾向がまずあって、それを言葉が(正しく、あるいは、間違って)伝える、という構図のもとでとらえがちです。しかし、社会学的思考は、それらの言葉自体が「若者」という社会現象の一部を構成している、ととらえます。たとえば、「いまの若い人は、自分が何に向いた人間なのか、どんな自分を目指すのか、もっとしっかり考えなければ」という語り口を例にとってみます。ある程度はもっともなことだと思うのですが、それでは以前の若者は、そんなに「自分が何に向いているのか」「どんな自分になりたいか」といった自己像をしっかり持っていたのでしょうか。そのように考えてよい根拠は思い当たりません。すると、「いまの(あるいは、以前の)若者は本当にしっかりと『自分』をもっている(いた)のか否か」を議論するのではなく、むしろ「どのような文脈でそうした語り口が発生してくるのか」を問うほうが有意義であるように思えてきます。

そのような問い方をするとどのような見え方になるのか、本書の私なりの解釈は、次の通りです。私たちの社会は常に何らかの変化を遂げ動いていますが、それに応じて、私たちの生き方や、人間関係の作り方、「自分自身」の持ち方に関する感覚も、微妙に変化していきます。近代以降の社会においては、それは、一貫した統合的な「自分」(他人から見た場合は、一貫した「その人」)を求めるベクトルと、逆に、その場その場に対応するような柔軟な「自分」(あるいは「その人」)を求めるベクトルとが拮抗し、局所的にどちらかが前面に出たり背後に退いたりします。著者の見立てでは、1990年代以降、若者のコミュニケーションや友人関係のあり方は、「この友人になら何でも話す」という類のものではなく、むしろ相手に応じて話題をかえ、同時に話題に応じて友人を使い分ける(これは、本当にお互いの好きな話題に限定することで、他の話題につきあわせることによる精神的な負担を相手にかけない、という態度につながります)、ただし、当該の話題については熱中して会話する、といった特性を以前より目立たせるようになってきています(本書第6章)。これは、先に述べたベクトルのうち後者、すなわち柔軟な「自分」の方に対応しているように見えます。しかし、一方では、そのような傾向に対して反発するような見方も再提示されるようになる。それが「最近の若者はしっかりとした自分というものがない」という嘆きという形をとったり、あるいは「もっと自分をしっかり持たないと就職活動を乗り切れないぞ」という激励(脅し?)の形をとったりするのではないか、と考えられるのです。

さて、もうひとつの有効な社会学的思考様式は、調査データにとことんこだわる思考様式です。上に挙げた1990年代以降の若者によるコミュニケーション・友人関係のあり方の変化に関する見立ては、浅野さん自身が関わってきた青少年研究会による質問紙調査(アンケート)の結果をもとにしています。また、それ以外にも、内閣府による世界青年意識調査の結果の一部が引用され、それらのデータを十分に検討することで、若者の変化それ自体に迫っていこうとしています。たとえば、世界青年意識調査の結果では、「充実感を感じるとき」として、「友人や仲間といるとき」を挙げる比率に上昇傾向がみられるのに対して、「他人にわずらわされず、1人でいるとき」は横ばいに推移してきています(本書139ページ)。また、地域社会への愛着に関する質問に対して「好きである」または「まあ好きである」と答える比率は、上昇しています。こうした部分に現れる「若者」たちの姿は、「人間同士のコミュニケーションが不足している」といったイメージではとらえられないし、むしろそれとは矛盾しているように見えます。このように、データにこだわることで、「若者」に関する印象論に巻き込まれず、いわば頭を冷やして現象を眺めることができるのです。

とはいえ、この本が依拠する調査データは、それぞれが貴重とはいえ、決して層の厚い豊富なものとはいえないような気がします。より具体的に踏み込めば、若者の友人関係のとり結び方や、そこに現れる自己の感覚は、まだまだ謎めいた部分が多いというべきかもしれません。たとえば、本書では、日本の若者が学校に通うことの意義を「友だちとの友情を育む」ことに求める傾向が強まっているという世界青年意識調査の結果も紹介されています(139ページ)。ここに注目すると、たとえば大学も、そのような目線で(つまり「友だちとの友情を育む」場として)以前よりも強く意識されている可能性があります。すると、そのような背景的意識が、具体的にはどのような大学生の友人関係づくりの仕方として現れるのか、そこでの友人関係づくりに先ほど述べた柔軟な「自分」のあり方は結びつくのか否か、そして、そうした友人関係づくりのあり方はたとえばサークルのとらえ方などにも影響するかもしれない、といった問題設定ができるような気がします。これはほんの一例だと思いますが、要するに、論理的にいえる(あるいは、いえそうな)こととデータとの突き合わせに関して、まだまだやれることがあるかもしれない、研究を蓄積すべきかもしれないということです。

もっとも、そうした突き合わせの材料となる調査研究は、必ずしも容易なことではありません。中高年齢層にとっては自らの憶測や印象論から距離をとるのは相当に難しく、逆に若者にとっては、あまりにも日常的な自分たちの社会生活を「研究対象」とすることの難しさがあります。「若者」は、これほど頻繁に語られるにもかかわらず、研究テーマとしては難しさもはらんでいるのです。そのようにみると、改めて本書で挙げられるデータは貴重だと認識できます。

「若者」について、憶測や印象で語ってしまうのでなく、しっかりと考えてみたい。そのような本格的な社会学的思考をはたらかせたい人に、お薦めしたい一冊です。

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