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『若きパルク/魅惑』ポール・ヴァレリー(みすず書房)

若きパルク/魅惑

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 精神医学者の中井久夫はエッセイの名手であり、詩の翻訳でも知られている。『現代ギリシャ詩選』と『括弧――リッツォス詩集』は名訳の誉れ高く、『カヴァフィス全詩集』は1989年度の読売文学賞を受賞している。

 中井は1995年にポール・ヴァレリーの『若きパルク』と『魅惑』を一冊にまとめて刊行したが、大判の豪華本だったために、少数の読者にしか届かなかった。しかし、一昨年、『若きパルク/魅惑 改訂普及版』として増補され、もとめやすい価格で再刊された。最初の本は重くて読みにくかったが、改訂普及版は普通の大きさで、読みやすい。

 本文には手をいれなかったということであるが、途中の版から『旧詩帖』に移された「セミラミスのアリア」がくわえられている。残念なことに、『若いパルク』の二つの草稿は削られたが、注釈はかなり増補されている。

 『若きパルク』は20年以上、文壇から遠ざかっていたヴァレリーが、第一次大戦の動乱の中、フランス語の伝統を守るために、ペンで戦おうと、気力を奮い起こして書きあげた長編詩である。長らく無名だったヴァレリーは、この一作の成功で、フランス的知性の代表者と目されるようになる。

 中井訳以前に『若きパルク』の邦訳は岩波文庫鈴木信太郎訳など五種類あった(現在はいずれも入手不可)。わたしが読んだことがあるのは鈴木訳、平井啓之訳、井沢義雄訳の三つだが、中井訳は最新の研究を踏まえているだけに面目を一新している。

 ヴァレリーといえば知の人であり、アポロン的な詩人と考えられてきたが、中井訳のヴァレリーディオニソス的な相貌を帯びているのだ。

 たとえば、前半の山場の第七節。

思ひ出よ、火あぶり台よ、真っ向から吹きつける黄金の風よ、

吹きつけて、この仮面を拒絶の色の明るい赤で彩れ、

焔と火照るこの私はかつての私であってはならぬ……

私の血も昇って、距離によって荘厳されて聖なる青空になってゐた

色薄いあの辺りをくれなゐにせよ、

かつて崇めた、無感動の時の虹、動かぬ過去の虹彩を!

 こんなに狂おしい日本語になったのはこの訳がはじめてではないだろうか。

 夜の昏迷が極まり、死の誘惑が極点に達する第十節はエロチックな詩句からはじまる。

          穢れを知らない私、その膝は

むき出しの膝の怖れの予感に打ち震える……

吹き来る風は私を砕き、鳥は刺し貫く、鎧戸を閉ざした心の闇を、

聞いたことのない奇怪な嬰児あかごの声で……

胸の二つの薔薇を私の息は持ち上げ下ろす。

 中井訳は肉体という主題を重視しており、死の淵から逃れて復活へ向かうくだりも生々しい肉感にあふれている。最後の生命賛歌はこう訳されている。

今、生命の血のたぎる乙女が一人、焔に向かって身を起こす、

陽の光を映す胸の二つの膨らみのきんが深い感謝に輝いて。

 『魅惑』の方も刺激的である。

 『魅惑』は古典的な詩法に厳密に則った、抽象的なアレゴリー詩の詩集だと思っていたが、中井訳で読むと、やけに生々しいのである。特に注釈(「ヴァレリー詩ノート」)をあわせて読むと、生々しさが倍加する。

 たとえば、「失われた美酒」。堀口大學の「われひと日海を旅して/いずこの空の下なりけむ、今は憶えず/美酒少し海に流しぬ/虚無にささぐる贄として」という名訳を読んで以来、古代の儀式を歌った象徴詩だろうと思ってきた。中井によると「失われた美酒」 Le vin perdu という題名は、第一次大戦の激戦地で独仏双方で百万人以上の戦死者が出たヴェルダン Verdun のアナグラムになっており、波の底から躍り上がるものとは戦死者の霊魂だというのである。ヴェルダンの戦いの翌年に第一稿のなったこの詩は、百万を超える戦死者の鎮魂の詩という一面があったということになる。

 注釈にはゴシップ的な情報もかなり含まれている。ヴァレリーの貧乏は文壇で有名で、オーディンがそれをからかった詩を作っているとか、1896年のロンドン行ではからずも英仏の情報戦に巻きこまれ、以後フランス情報機関からマークされ、陸軍省に勤務するようになったのも情報機関の関与があった可能性があるとか。『若きパルク』はラシーヌの影響が濃いと言われてきたが、中井によると英詩の本歌取りが多いそうで、これもへえーである。

 注釈の次には「ヴァレリー詩・ことばノート」という、ヴァレリーの詩的語彙辞典が置かれている。ヴァレリーの詩に横断的に出てくるイメージが五十音順に並べられているが、読み物としても実に面白い。惜しむらくは見出しが中井の訳語になっていること。せっかく原語が併記されているのだから、原語による索引がほしかった。

 この訳詩集は一昔前のヴァレリー像しか知らない者にとっては驚きの連続だろう。小林秀雄以来、ヴァレリーは神棚に祀りあげられてきた感があるが、中井の仕事によって、ようやく現代詩人として読めるようになったといえるのかもしれない。

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