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『英語にも主語はなかった―日本語文法から言語千年史へ』 金谷武洋 (講談社叢書メチエ)

英語にも主語はなかった―日本語文法から言語千年史へ

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 金谷武洋は三上文法を発展させて主語否定三部作を発表したが、本書は『日本語に主語はいらない』(叢書メチエ)、『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書)につづく三作目で、おそらくもっとも重要な著作である。前二作では英文法引き写しの国文法は日本語の実態が説明できず、外国人日本語学習者にとっては有害無益であると断じたが、本書は返す刀で主語は近世の産物であり、もともとの英語には存在しなかったと説いているのだ。

 本書の内容は著者がカナダで書いた修士論文と博士論文がもとになっている。『主語を抹殺した男』に指導教官とのやりとりが回想されているので引く。

 三上文法の要点を狭い研究室の板書で説明すると、マニエ教授は身を乗り出して大いに興味をしめした。鳶色の目を輝かせて放った一言が忘れられない。「ほほう、日本語の構文は西洋の古典語に似ているんだね。面白いじゃないか」。

 ギリシャ語やラテン語は動詞の語尾で誰の行為かがわかるので、主語はあってもなくてもよいし、語順もかなり自由である。現在の英語では主語は絶対に必要で、天気のような行為者のいない自然現象を述べる場合にも It is fine. のように it という仮主語を立てるが、ギリシャ語やラテン語はもちろん、古い英語もそんなことはしていなかった。

 現代英語では SVO や SVOC のような5文型という形で語順が固定しているが、それは動詞の活用が簡略化され、語順という形で文法的機能をあらわすようになったからで、古い英語はそうではなかった。他動詞文でSVO順になっている割合は16世紀のシェイクスピアでは90%だったが、14世紀のチョーサーでは84%、9世紀ではわずか40%だという。

 しかし、修士論文でいきなり英語や印欧語の主語の問題にとりくむのは茫漠としすぎている。

 マニエ教授と相談の結果、目をつけたのは古い印欧語に見られる「中動相(middle voice)である。この問題は本書の目的から外れるので、ごく簡単に説明すると、中動相という名称は起源的には古典ギリシャ文法の用語から来ており、その名前のとおり「能動態(active voice)と受動態(passive voice)の中間に位置する態として理解されてきた。一言で言うと「形は受動態、意味は能動態」という変わり種の動詞語尾を持つ。

 伝統的には中動態は能動態と受動態の中間とされてきたが、もともとは能動態と中動態だけで、受動態はなかったという。中動態は「お互いに~する」とか「みずからを~する」というような再帰的表現に使われることが多かったが、その発展として、中動態の語形を借りて受動態が誕生したわけだ。

 バンヴェニストは中動態の伝統的な説明にあきたらず、受動態が生まれる前の段階にさかのぼって考えた。能動態という名称は受動態との対比でいわれる以上、受動態誕生以前の能動態を能動態と呼ぶのはおかしい。現在、能動態と呼ばれているヴォイスは、受動態誕生以前は中動態と対立していたのだから、彼は能動態を外相、中動態を内相と呼ぶことにした。外・内の対立にしたのは、能動態でのみ使われる動詞と中動態でのみ使われる動詞を集め、比較したところ、能動態で使われる動詞は行為が他に影響するのに対し、中動態で使われる動詞は状態をあらわしたり、行為をあらわす場合は結果が自分自身にとどまることがわかったからである。

 バンヴェニストの歴史的考察は画期的だったが、もっとユニークな説明を試みた研究者が日本にいた。英語学者の細江逸記である。細江は中動相は日本語の助詞「る」「らる」と同じ「反照」表現であるとした。

phaino(能動相) = I show.見せる
phinomai(中動相)= I show myself.あらわれる

 「る」「らる」は自発になったり、可能になったり、尊敬になったり、完了になったりする、いかにも日本語的な曖昧模糊とした表現だが、それを中動態の説明に援用する発想はすごい。

 では、金谷説はどうか。金谷は細江もまだ主語にとらわれていると批判し、中動態の本質は印欧語における無主語文であり、行為者の不在と自然の勢いをあらわすと述べている。「思う」ではなく「思われる」にすると、行為者の存在が曖昧になり、主体的な決断の結果ではなく、自然の勢いとしてそう思ってしまったというニュアンスになるが、能動態と中動態の対立もそのようなものらしい。だとすれば、西洋古典語は確かに日本語と似ている。

 受動態はどのように生まれたのだろうか。なぜbe動詞を受動態に用いるのだろうか。

 ここで金谷は恐ろしい指摘をする。受動文は能動文の裏返しではなく、能動文を受動文にすると意味が違ってしまうというのだ(生成文法にとっては致命的だ)。

 われわれは英文法の授業で能動文を受動文に機械的に書き換えていたが、実際はかなり不自然な文章を生みだしていたのである。また、能動文の主語を by を介して文の末尾にくっつけていたが、by で行為者を受動文など、英文法の授業以外ではまずお目にかからない。

 機械的に作られたのではない受動文は何をあらわすのか? 金谷は「ある行為を人為的な介入とは捉えず、あたかも自然にそうなったと表現するところにある」というメイエの説明を援用する。そう考えれば、受動態にbe動詞を使うのはごく自然なことである。

 金谷は同じような発想が日本語にもあると指摘する。やや長いが、遅刻の言い訳に存在文を使うケースを例を引く。

「北海道から母が来た」は行為文(する文)で、これでは言い訳にならない。一方、「母が来たんだ」は存在文(ある文)に変わっている。

 その発想は「母が、来た(という状態)で(すでにそこに)ある」ということだ。そして、存在文だからこそ、その事実は人間のコントロールを超えて、もうそこに既成事実として成立してしまっており、自分はどうしようもない、というニュアンスが加わる。これは要するに「する文」を「ある文」に変えているわけだ。そのお蔭で,言外の状況の説明や言い訳として使えるのである。

 「る」「らる」が自発・可能・尊敬になるのも、同じ発想が背景にある。意識的な行為としてそうしたのではない。自然の勢いでそうなってしまったというニュアンスが自発や可能・尊敬になるのだ。

 日本語とは無関係な印欧語の中動態の考察が、日本語の論理に洞察をあたえてくれたのである。感動した。

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