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『村上春樹のなかの中国』 藤井省三 (朝日選書)

村上春樹のなかの中国

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 著者の藤井省三氏は中国語圏の現代文学を専門とする研究者で、『世界は村上春樹をどう読むか』の編者の一人でもある。現在、中国語圏の日本文学者とともに東アジアにおける村上春樹受容を共同研究しているということで、その成果の一端は同書でふれられていたが、もっと知りたいと思っていたところに本書が出た。

 本書は六章立てだが、おおよそ二つの部分にわかれる。村上春樹のなかの中国を論じた第一章と第六章、、中国語圏のなかの村上春樹を論じた第二章から第五章である。

 村上春樹が日本の近代史、中でも中国侵略の過去にこだわりつづけていることはつとに指摘されていることで、わたし自身、「ムラカミ、ムラカミ」(「群像」2000年12月号)という試論でふれたことがある。

 著者は魯迅の「阿Q正伝」と「藤野先生」を光源に、初期三部作に一貫して登場する三人のうち、ジェイが昭和初年生まれの中国人であり、最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』の複数の作品に中国に対する「背信と原罪」が埋めこまれていることを指摘する。特に表題作の「中国行きのスロウ・ボート」は単行本収録時と全作品収録時の二度にわたって大幅な改稿がおこなわれているという指摘は重要である。

 村上作品の隠された典拠を探し求めるのは謎解き本の常套で眉に唾をつけた方がいいが、著者の指摘する魯迅の場合は検討に値するし、第六章で素描された阿Qの系譜は比較文学のテーマとしてさらに広がっていくだろう。

 著者が述べるように村上春樹における中国は大きなテーマだとは思うが、その一方、ちょっと待てよと思わないではない。作品を何度も書き直すのは作家にとってそれだけ重要だからにちがいないが、頭では重要だと思おうとしても、リアリティがつかめていない可能性もあるからである。『海辺のカフカ』でカフカ少年は亡霊のような日本兵と出会うが、わたしはあの場面にわざとらしさを感じた。

 四方田犬彦氏が指摘していたと思うが、村上春樹は中国にはあからさまにこだわりつづける反面、朝鮮・韓国は無視しつづけている。村上の中国に対する関心は額面どおり受けとりにくい部分があるのである。

 中国語圏のなかの村上春樹を論じた部分は実に興味深い。村上春樹ブームは台湾 → 香港 → 上海 → 北京と時計回りに広がっていったが、時計回りは経済発展の順序でもあって、夫々の地域で経済成長が一段落した時点で村上春樹ブームが発生しているという共通点がある。一人の作家が経済指標になった例がこれまであったろうか。

 また、経済成長が一段落した時期は民主化運動が終息した時期でもあり、若者の間に喪失感が広がった。村上春樹ブームはその喪失感を埋めるようにして起きているという。

 最後に、欧米では『羊をめぐる冒険』の人気が高いのに対し、東アジアでは『ノルウェイの森』の方が圧倒的に読まれている。著者は『ノルウェイの森』に描かれたコミュニケーションの不可能性が、伝統的な紐帯を失った東アジアの都市に住む若者の心に訴えたのだろうと指摘している。

 著者は以上を四つの法則としてまとめている。

  • 時計回りの法則
  • 経済成長踊り場の法則
  • ポスト民主化運動の法則
  • 森高羊低の法則

 「法則」と呼ぶのは半分は洒落だろうが、確かにそうした事実はあるわけで、後世書かれる東アジア史には村上春樹の章がもうけられるかもしれない。

 著者は四つの法則という視点から台湾、香港、大陸中国に一章をあて、夫々の特殊性を検証している。いずれも地域性と政治制度の問題がくっきり出ており、いろいろな意味でおもしろい。

 最近、中国の贋物が話題になっているが、やはりというべきか、村上春樹海賊版も横行していた。翻訳を勝手に短縮して辻褄があわなくなった粗悪品が出回っているあたりは想定内だが、なんと「福原愛姫」という村上春樹の友人が書いたと称する『ノルウェイの森』の続篇まで堂々と出版されているそうである。

 第五章では中国語訳の比較が試みられているが、『ノルウェイの森』の林少華訳の誤訳を通じて中国ナショナリズムの問題に遡及している研究が紹介されている。普通、誤訳といえば不注意と語学力の不足という個人的問題にとどまるが、そこにイデオロギーを読みこむのだから、中国人の政治意識の鋭敏さに驚かされる。

 中国は近くて遠い国だなとあらためて実感したが、その中国に橋を架けてくれた村上春樹の存在は大きい。

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