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『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』 速水融 (藤原書店)

日本を襲ったスペイン・インフルエンザ

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 世界を席巻したスペイン・インフルエンザは日本にも襲来した。まず、1918年5月に先触れの流行があり、1918年冬の第二波、1919年冬の第三波が欧米とほぼ同時期に日本を駆け抜けた。先触れ流行は大角力夏場所で休場力士が多数出たことから「角力風邪」と呼ばれた。高病原性を獲得して以降の第二波と第三波は多数の死者を出したので疫病としてあつかわれ、「前流行」、「後流行」と呼ばれている。

 本書は日本におけるスペイン・インフルエンザの流行を研究したはじめての単行本である。クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』に倣った部分が多く、周辺地域や文藝作品にまで目を配っている。クロスビーはアメリカを中心に全世界をあつかっていたが、本書は日本だけなので生の史料を多数引用している。ほとんどのページに当時の新聞(ローカル紙が多い)に載ったスペイン・インフルエンザ関連の記事が画像で掲げられているが、「全村惨死」、「棺桶大払底」、「漁夫続々死亡」、「屍体を原野に山積して火葬す」といった見出しを眺めているだけでも惨状がうかがえる。巻末には栃木県の矢板で診療にあたった五味淵伊次郎医師の手記と、軽巡洋艦「矢矧」の航海日誌が付録として全文収録されている。

 どちらも克明な日録であり貴重だが、「矢矧」の記録は特に興味深い。「矢矧」は第一次大戦に際し南方の警戒と輸送船保護にあたったが、シンガポールでスペイン・インフルエンザに感染し、次の寄港地であるマニラにたどり着くまでに458名の乗組員全員が罹患、副長をふくむ48名が死亡するという事態にいたった。航海士までもが倒れたが、たまたま便乗していた「明石」の乗組員が操艦を引き継ぎ漂流をまぬがれた。「明石」は地中海に派遣されていたので、乗組員は免疫があったのである。

 「矢矧」が寄港した時点のシンガポールはインフルエンザ禍の最中で、艦長は乗組員の上陸を許さなかったが、交代の船が遅れたために停泊は2ヶ月におよんだ。出航の時点では流行がおさまっていたので、艦長は温情から乗組員に上陸を許した。それが裏目に出たのである。

 インフルエンザの流行は数ヶ月で終息するが、免疫ができて新しい発症者が出なくなったというだけであって、ウィルスは空気中に充満しているのだ。免疫のない人間がそんなところへ出ていったら一発で感染する。

 この教訓は重要である。パンデミックが起きたら第一波が通りすぎるまでの二ヶ月間、自宅に籠城するといいという説があるが、感染がおさまったように見えても、免疫が間にあわなかった人が死に、間にあった人が生き残っただけであって、ウィルスが消えたわけではないのだ。そんなところへ出ていったら、シンガポールに上陸した「矢矧」の乗組員同様、感染は必至である。

 著者の速水融氏は日本で歴史人口学を確立した人だけに、歴史人口学的な考察ではクロスビーを一歩進めている。「前流行」と「後流行」の死亡者数を地域ごとに集計し、比較するという精密な作業をおこなっているのである。

 「前流行」と「後流行」では死亡率が5倍も違うので、別種のウィルスではないかという説もあるそうだが、速水氏は「前流行」で死者の多かった地域では「後流行」の死者がすくなく、逆に「前流行」で死者のすくなかった地域は「後流行」で多いという相関関係をつきとめ、「前流行」でできた免疫が「後流行」で有効だったとしている。

 免疫の有効性は陸軍の統計からもうかがえる。アメリカ同様、日本でも若い兵士が密集して生活する兵営が感染の温床となったが、いったんおさまった流行が、12月1日に新兵が入営してくるとふたたび猖獗をきわめたのだ。しかも、罹患者と死者のほとんどは初年兵だった。二年兵以上には「前流行」で免疫ができていたと考えるべきだろう。「前流行」でできた免疫が「後流行」でも有効なら「前流行」と「後流行」は同一ウィルスだった可能性が高い。

 こうした分析が可能なのは日本では戸籍が完備している上に、内務省による統計とその元になった都道府県別の統計が残っていたからだが、都道府県別の資料をみていくと内務省の統計の不備が見つかった。ローカル紙の記事からすれば死者が出ているはずなのに、死者ゼロになっている県や、京都府のように途中から数字がなくなっているところがすくなくないのだ。そもそもインフルエンザで亡くなった人の死因がすべてインフルエンザないし肺炎となっているかどうかも怪しい。

 そこで本書では流行の前年の1917年の死者数を基準に差分をとるという「超過死亡数」という手法で推計をやり直している。従来、スペイン・インフルエンザによる死者数は38.5万人ということになっていたが、本書では7万人も多い45.3万人という数字を導きだしている。

 これだけの被害が出ているのに、日本でも欧米同様、スペイン・インフルエンザは忘れられてしまった。欧米の場合は第一次大戦の惨禍の蔭に隠れたが、日本の場合は3年後に起きた関東大震災が影響したのではないかと著者は推測している。死者はスペイン・インフルエンザの方が4倍も多かったが、震災は街に目にみえる傷痕を残し、復興に何年も要したのである。

 もう一つ、「風邪」という呼称も軽んじられる一因となったと考えられる。著者は「スペイン風邪」ではなく「スペイン・インフルエンザ」という呼称を提案しているが、致死率60%というH5系のウィルスの凶悪さからすると「インフルエンザ」も軽すぎるかもしれない。

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