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『ミトコンドリアが進化を決めた』 ニック・レーン (みすず書房)

ミトコンドリアが進化を決めた

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 『生と死の自然史』の続篇である。進化史と人間の健康の両方をおさえているのは前著と同じだが、両方の鍵となるミトコンドリアに話を絞っているのでまとまりがいい。また書き方が弁証法的というか、ドラマチックであり、劇作家はだしである。

 著者のニック・レーンは移植臓器を長持させる研究からミトコンドリアの研究にはいったという。悠久たる進化の話をしていても人間の健康という視点があるのは臨床に密着したテーマからはじめた人だからなのだろう。

 ミトコンドリアが酸素呼吸の要であることはご存知と思うが、細胞によってミトコンドリアの量が違う。脳や肝臓、腎臓、筋肉など代謝の活発な細胞の細胞質の40%はミトコンドリアだという。成人の場合ミトコンドリアは1兆の1万倍個あり、体重の実に10%を占める。そのミトコンドリアが本書のテーマである。

 前著では先カンブリア代の細菌の進化が語られたが、本書では生命の起源にさかのぼり、酸素を使わない代謝機構からはじめている。プロトン・ポンプという言い方をしているが、生命活動は電子のやりとりにまで還元できるらしい。生命の起源はプロトン・ポンプをどう駆動するかという問題になるようだ。

 光合成と酸素呼吸もプロトン・ポンプという視点から統一的にとらえられている。最初の生命は極限状況に棲む古細菌のようなものだったらしいが、このレベルの進化は一言でいえばプロトン・ポンプの試行錯誤ということになる。

 リン・マーギュリスは真核生物は古細菌と酸素呼吸細菌の合体で誕生し、ミトコンドリアは酸素呼吸細菌の名残だという説を提唱したが(『共生生命体の30億年』参照)、具体的に何と何が合体したのかは議論があった。

 当初はミトコンドリアをもたない生物――微胞子虫類、古アメーバ類、メタモナス類、パラベイサル類など、病原性をもった困った連中――が候補だったが、そうした生物は最初はミトコンドリアをもっており、後で失ったことが判明して候補から消えた。最終的に酸素呼吸細菌と合体したのはメタン生成菌だということがわかっている。酸素呼吸細菌の正体はリケッチアらしい。

 ここの議論は専門的だが本書の白眉である。というのも、合体が古細菌主導でおこなわれたのか、酸素呼吸細菌主導でおこなわれたのかにかかわるからだ。もし古細菌主導ということになれば、古細菌が酸素呼吸細菌を食べたことになるが、酸素呼吸細菌主導ということになれば、酸素呼吸細菌が古細菌に寄生したことになる。

 著者はアポトーシス(細胞自殺)を手がかりに、まず寄生説よりに議論を進める。アポトーシスミトコンドリアによって発動されるが、これは細胞にはいりこんだ細菌が宿主の細胞を破壊し、巣立っていくのに似ていないだろうか。そうだとしたら、真核生物はミトコンドリアにあやつられていることになる。

 ぎょっとする仮説だが、ここで著者は弁証法的な変わり身を見せる。アポトーシスミトコンドリアが起こしているのではなく、ミトコンドリアの破壊によって漏れだした活性酸素がシグナルとなって起こるというのだ。寄生説で決まりと思わせておいて相互補完説へ反転するあたり、プロの劇作家なみの手際である。

 真核生物の一部となったミトコンドリアは800以上の独自遺伝子を核に移されたが、自己修復関係の13の遺伝子は依然としてミトコンドリア内にとどまっているという。ミトコンドリア原子力発電所のようなものなので、もし事故が起きたら核まで設計図をとりにいっている暇がないからだ。

 自己修復できればいいが、できなかった場合は活性酸素ミトコンドリア外に漏出し細胞を内側から破壊する。こうなるともはやアポトーシスで自爆するしかない。抗酸化サプリに寿命を伸ばす効果がないのはアポトーシスの引金になる活性酸素を隠してしまうかららしい。

 日本の田中雅嗣氏の寿命を延ばすミトコンドリア遺伝子の研究が紹介されているが、この遺伝子をもっていると活性酸素の発生量がわずかにすくないそうである。百歳以上の長寿者にはこの遺伝子の持主が通常の五倍もいるが、活性酸素発生量のわずかな違いが蓄積されることで大きな違いを生むのだろう。

 鳥や運動選手が長命なのはミトコンドリアが多く、一つ一つのミトコンドリアにかかる負荷が小さいからだという。負荷が小さければ、事故が起こる確率は低くなる。

 また、唯一実証されている長命法である絶食は燃料を減らすことで原発の運転に余裕を生む。ミトコンドリアの事故を防ぐことが長寿と健康の鍵のようである。

 ミトコンドリアだけでここまでわかるのかと驚くとともに、気分が高揚してくる。40億年の生命のドラマはわれわれの細胞一つ一つに宿っているのである。

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