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『検証 本能寺の変』 谷口克広 (吉川弘文館)

検証 本能寺の変

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 『本能寺の変 光秀の野望と勝算』で藤本正行鈴木眞哉の『信長は謀略で殺されたのか』と並べて評価されていたので読んでみたが、独自の見解を打ちだした本ではなく、これまでの本能寺の変研究を紹介したレビュー本だった。新書判の倍の値段だが、初心者向けではないからこれでいいのだろう。

 プロローグとエピローグを別にすると、四部にわかれる。

 第一部では本能寺の変の流れを追いながら、途中で史料を信頼性の高い順に四グループに分類し紹介している。

(1) 手がかりとなる史料(記録・日記)

『言経卿記』、『兼見卿記』、『晴豊公記』、『日々記』、『多聞院日記』、『御湯殿の上の日記』など

(2) 手がかりとなる史料(覚書・編纂物)

信長公記』、『惟任謀反記』、『立入左京亮入道道隆左記』、『本城惣右衛門覚書』

(3) 参考になる史料

『川角太閤記』、『豊鑑』、『当代記』、『イエズス会日本年報』、『甫庵信長記』、『三河物語

(4) そのまま信じてはいけない史料

『総見記』、『明智軍記』

 どういう由来の史料で、信頼できる点とできない点を簡潔にレビューしており参考になる。

 第二部では本能寺の変研究の流れを江戸期、明治からNHK大河ドラマ『信長』が放映された平成四年まで、それ以降の三期にわけて概観している。大河ドラマ『信長』が目印となるのは放映をきっかけに陰謀説が大々的に流行し、今日につづいているからである。

 江戸期は儒学的にも、庶民の人気的にも、信長は残虐非道な暴君として評判が悪く、本能寺の変はもっぱら怨恨が原因と考えられていた。時代が下ればくだるほど、怨恨に尾鰭がついていったということである。江戸期に信長評価の先鞭をつけたのは頼山陽だったが、彼とても怨恨説の枠を出ることはなかった。

 明治になると信長の業績が評価されるようになったが、本能寺の変については怨恨説がもっぱらだった。その原因として著者は実証史学が未成熟で、『総見記』や『明智軍記』のような尾鰭のいっぱいついた俗書を無批判に信じこんだからだとしている。

 こうした流れを変えたのが戦国史の泰斗、高柳光壽氏の『明智光秀』(1958)だった。高柳は史料批判によって怨恨説の論拠をすべて否定し、良質な史料にもとづいて野望説をとなえた。これに対してもう一方の権威、桑田忠親氏が反論し、イエズス会史料など、それまで参照されていなかった史料をもとに怨恨説を主張し、論争となったのは知られているとおりである。

 歴史学の世界では高柳・桑田論争以後、本能寺の変研究は停滞期をむかえるが、一般向け読物の世界では目端のきいた著者がつぎつぎと本能寺の変をとりあげはじめる。その中で世間の注目を集めたのはトンデモ歴史の大家、八切止夫氏だという。

 さて、こうして大河ドラマ『信長』の放映をむかえるわけであるが、雨後の筍のように出てきたさまざまな陰謀説の中で朝廷黒幕説だけは一考の価値があるとしている。

 第三部は陰謀説の紹介と再検証にあてられている。一考の価値ありとした朝廷黒幕説に半分以上の紙幅が使われているが、結論としては「先入観に導かれて史料を曲解するところあら生まれた」とにべもない。

 陰謀説は一通り目を通したつもりだったが、本願寺教如上人黒幕説などというものまであるそうである。

 最近の陰謀説として井上慶雪、円堂晃、小林正信三氏の著書をとりあげ批判しているが、円堂氏の『「本能寺の変」本当の謎』については批判としては不十分ではないかと思う。著者は一万三千もの大軍で京都に進軍したのはなぜか、市中に分宿していた馬廻衆が駆けつけなかったのはなぜか、信忠を同時に襲わなかったのはなぜかという円堂氏の疑問を「いちおうもっとも」とするものの、明智軍が三隊にわかれて進軍したと考えれば説明がつくと片づけている。

 そうだろうか。円堂氏が提起した一番の問題はあのような大軍が完全軍装で早朝の京都に入城したのに、なぜ京都所司代や馬廻衆は気がつかなかったのかという点なのだ。三隊にわけたとしても数千の軍勢が、庶民が朝の支度をはじめていた時間に市中に展開したのである。著者の批判は批判になっていないのではないか。

 さて、第四部では本能寺の変の原因の諸説を検討し、最終的に長曾我部説に軍配を上げている。現時点では最も妥当な結論だろう。

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