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『本能寺の変 四二七年目の真実』 明智憲三郎 (プレジデント社)

本能寺の変 四二七年目の真実

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 著者の明智憲三郎氏は光秀の庶流の子孫と伝えられる家に生まれた人である。明智の名をはばかって代々明田を名乗ってきたが、明治になって曾祖父が古文書など証拠の品とともに明智への復姓を願い、認められたという(古文書類は関東大震災で焼失)。

 家系伝説の信憑性はともかくとしても本書の議論は実に興味深く、円堂晃氏の『「本能寺の変」本当の謎』とともに、現在、最も説得力のある陰謀説といっていいだろう。

 内容は四部にわかれる。

 第一部「作りかえられた歴史」では史料批判によって怨恨説と信長不仲説を否定するが、このあたりは学問的に決着がついていて新味はない。注目したいのは光秀の経歴を考証した部分である。

 通説によれば越前朝倉家に仕官していた時、細川藤孝と知りあい、足利幕府再興について話しあって意気投合した。光秀は讒言を受けて朝倉家を去り、信長に仕えるようになると、藤孝を信長に紹介し、互いに連繋して足利義昭の上洛を実現する。光秀は信長側の代表として幕府の行政に参加し、頭角をあらわしていった、とされている。

 ところが永禄6年の幕臣名簿に「明智」の名があり、これが光秀ではないかという説がある。また、『多聞院日記』とフロイス『一五八二年日本年報追加』という第一級史料に光秀は藤孝の家来だったと記されている。

 後者については光秀と藤孝の親密な関係が誤って伝えられたものとする解釈が主流だが、著者はこれこそが事実であり、朝倉被官の方が誤りだとする。朝倉被官は『細川家記』と『明智軍記』に出ているが、『細川家記』は『明智軍記』を史料として名をあげており、しかも両者の記述は一致するので、朝倉被官の根拠は『明智軍記』という信頼性の乏しい史料だけになる。

 『細川家記』は永禄11年に藤孝を信長に引きあわせたのは光秀だとしているが、他の確かな史料によると藤孝は信長とそれ以前から行き来しており、光秀が引き合わせる必要はなかったはずである。

 著者は永禄6年の幕臣名簿については前半部分は確かに永禄6年の名簿だが、後半は永禄8年の義輝謀殺後、藤孝が義昭体制を立ちあげた際の名簿ではないかとしている。義輝とともに多くの側近が討死にした上に、幕臣は義栄擁立派と義昭擁立派に割れていた。義昭を擁立した藤孝は急遽人材を集める必要に迫られ、家来だった光秀を幕府の直臣にとりたてたというのだ。

 これが事実だとしたら、光秀は信長のもとで栄達し、旧主である藤孝を組下にかかえたことになる。光秀と藤孝の親密な交際はつとにしられるところだが、内心まではわからない。著者は光秀に対する屈折した感情が本能寺の変前後の藤孝の動きに影響したと推測している。

 第二部「謀反を決意した真の動機」では三つ要因があげられている。第一は土岐氏再興の野望、第二は長宗我部問題である。

 長宗我部原因説の難点は樋口晴彦氏の『本能寺の変 光秀の野望と勝算』が指摘しているように、長宗我部氏の滅亡は斎藤利三にとっては切実だが、光秀にとっては敢えて謀反を起こすほど重要ではなかった点にある。著者は利三の実兄で、長宗我部元親正室の義弟であり、元親の嫡男信親に娘を嫁がせた石谷辰頼を前面に押しだすことによって、長宗我部問題と土岐氏再興問題が一体であり、長宗我部氏の命運が光秀にとっても重要だったと論証しようとしている。

 残念だが、著者の試みは成功しているとはいえない。辰頼についてはほとんど史料が残っておらず、光秀との関係は憶測に憶測を重ねるしかないからだ。

 しかし、第三の要因はおもしろい。信長は武田滅亡で利用価値のなくなった徳川家をとりつぶそうとしており、本能寺の変は本来は家康討ちのはずだったというのだ。それが光秀の翻意で信長討ちにすりかわってしまった。すなわち、光秀=家康密約説である。

 光秀=家康密約説は以前からあったが、著者は徳川討伐計画が発動直前まで進んでいたとする。激戦が予想されるので、侵攻は光秀軍団を主体とし、信忠率いる織田本軍は温存する。旧徳川領は恩賞として光秀にあたえられ、明智家は丹波から三河遠江駿河に移封されることになるというわけだ。

 著者によれば、信長の甲州遠征は徳川討伐の下見だった。信長は光秀、藤孝、筒井順慶の三人をともなって、新たに征服した信濃・甲斐をまわり、帰路、徳川領で盛大な歓迎を受けているが、これは光秀軍団の幹部に徳川領侵攻作戦の下見をさせたのだと著者は推測する。ヒトラーがオリンピックの聖火リレーをヨーロッパ征服の下見に使ったようなものだろう。

 本能寺の変を家康謀殺と勘違いした者がいたという史料が複数残っていることからわかるように、当時の状況として家康謀殺の可能性は十分ありえた。明智軍が大軍であるにも係わらず、怪しまれずに京都に入城できたのは、信長自身が呼びよせたからということになる。

 なぜ光秀は家康ではなく、信長を討ったのだろうか。光秀は変の二週間前まで饗応役として家康と親しく接する立場にあり、密約を結ぶ機会があったが、それ以上に家康は光秀の同盟者となりうる位置にいた。

 秀吉の中国大返しがあまりにもみごとだったために見えなくなっているが、著者はすぐに畿内にもどれる軍団がただ一つ存在していたとする。甲斐22万石に封じられていた河尻秀隆軍である。秀隆は信忠元服時に補佐役に指名され、信忠をいただく織田本軍を実質的に仕切ってきた。河尻軍が西上していたら、美濃でちりじりになっていた織田本軍を率いて光秀と決戦に臨んでいた可能性が高い。しかし、そうはならなかった。

 いちはやく領国にもどった家康が武田の遺臣を扇動し、甲斐信濃を侵す挙に出たからだ。秀隆は家康の使者を斬り殺して、徳川に対決する姿勢を明確にしたが、国一揆をおさえきれず横死している。

 密約云々は別にしても、結果を見れば家康は本能寺の変に乗じて織田領を脅かし、光秀を助けた形になっている。

 家康は命からがら伊賀越えをしたことになっているが、穴山梅雪の死に方といい、信忠に扈従しながら二条御所から生還した水野忠重といい、甲斐信濃の簒奪が清洲会議で黙認されたことといい、確かに妙なことが多すぎる。

 第三部「本能寺の変はこう仕組まれた」はいよいよ事件の再構成である。家康は5月29日から堺に逗留し、変の当日の6月2日、京都に向かった。変がなければ同日中には本能寺につき、信長に謁見していたはずである。

 著者の推理が正しければ、信長は京都に入る直前の家康と重臣一行を明智軍に襲わせ、その後徳川領に向けて進発させていたことになる。そのシナリオがなぜ、どのように狂ったか。本書の推理は実に巧みに組み立てられており、半ば以上説得されてしまった。

 第四部「新説を裏づける後日譚」はフロイス文書と家康のその後を光秀=家康密約説の視点から再検討している。これもおもしろすぎる。

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