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『ロリータ』 ナボコフ (新潮文庫)

ロリータ

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 日本のナボコフ研究の第一人者、若島正氏による『ロリータ』の新訳である。

 『ロリータ』の最初の邦訳は1959年に河出書房から上下二巻本で出た大久保康雄氏名義の訳だったが、この訳は丸谷才一氏によってナボコフの文学的なしかけを解さぬ悪訳と手厳しく批判された。

 今回の若島訳をとりあげた丸谷氏の書評(『蝶々は誰からの手紙』所収)によると、大久保氏は丸谷氏に私信で、あの訳は自分がやったわけではなく、目下、新しく訳し直しているところだという意味のことを書いてきたという(大久保氏はおびただしい数の訳書を量産していたから、下訳を自分でチェックせずに出版するということもあるいはあったのかもしれない)。その言葉通り、大久保氏は1980年に新潮文庫から全面的に改訳した新版を出している。

 新潮文庫版が全面的な改訳だったとは知らなかったので、今回、古書店で探して読んでみたが、明らかに誤訳とわかる部分(pedrosis=小児性愛を「足フェティシズム」とするような)は散見するけれども、流麗ないい日本語になっているという印象を受けた。

 さて、三度目の邦訳である若島訳である。

 若島訳は2005年11月に単行本で出たが、一年後、文庫にはいる時に訳文が練りなおされ、さらに40ページを越える注釈が付された(単行本を買った人間にとっては腹立たしいが、ナボコフの専門家による注釈がついたこと自体は歓迎すべきことである)。

 賞味期限がまだあると思われる大久保訳を絶版にしてまで出した意義はどこにあるのだろうか。わたしはナボコフの一ファンにすぎないが、野次馬的興味から比較してみることにした。

 夫人の急死後、ハンバート・ハンバートがロリータをキャンプにむかえに行き、最初の夜をむかえる場面を見てみよう(第1部第27章)。まず、大久保訳。

「へえ、しゃれた感じね」下品な私の恋人は、音をたてて降りしきる霧雨のなかへ這い出して、ロバート・ブラウニングの言葉を借りるなら、"桃の割れ目"にくいこんだ服のしわを子供っぽい手つきでつまんでのばしながら、漆喰壁の方を横目で見やった。アーク燈の下の拡大された栗の葉の影が、白い柱の上で、たわむれるようにゆれた。

 なめらかで文学的な日本語である。これが若島訳だとこうなる。

「うわあ! イケてるじゃん」。音をたてて降りしきる雨の中に這い出して、桃の割れ目*ロバート・ブラウニングからの引用)にはさまったワンピースの襞を子供らしい手つきでつまみあげながら、下品なわが恋人は漆喰壁を横目で見て言った。アーク灯に照らされて、栗の葉の拡大されたシルエットが白い柱の上ではねまわってはしゃいでいた。

 ロリータの口調が現代的になっていて、不協和音のように耳に突きささる。しかし、ブラウニングの「桃の割れ目」という雅やかでエロチックな表現と下品な今風の言葉づかいが衝突する面白さが原文の意図だとしたら、あえて流麗さをぶちこわした若島訳のように訳すべきだろう。

 次はモーテルの一室で裸のハンバート・ハンバートがロリータを膝の上に抱く場面(第2部第2章)。二人は男女の関係になっており、ハンバート・ハンバートは朝と晩にロリータに「おつとめ」を要求するにようなっている。

 とくべつ暑さのきびしい午後は、憩いシエスタのひとときのじっとりと汗ばむほどの親密さにひたって、彼女を膝にのせ、肘掛椅子の背に重い裸の体をもたせかけて、椅子の革のひんやりとした感触を楽しんだ。彼女は、いかにも子供っぽく新聞の娯楽欄に読みふけりながら鼻をほじくり、まるで靴か人形かテニスのラケットの柄の上にうっかり坐りこんだが、どくのもめんどうくさいといったように、私の恍惚状態には、まったく無関心な態度を示した。

 「靴か人形かテニスのラケットの柄」というのは勃起した男根の婉曲表現である。ハンバート・ハンバートが男根の上にロリータの尻を感じて恍惚となっているさまがくっきりと脳裏に浮かぶ。

 この条は若島訳ではこうなる。

 とびきり熱帯のような午後、べとべとと身体を寄せるシエスタの時間に、膝の上に彼女を抱きながら、全裸の巨軀肘掛け椅子の革に触れるそのひんやりとした感触が私は好きだった。彼女はそこでいかにも子供らしく、鼻をほじくりながら新聞の娯楽欄に夢中になっていて、我が恍惚にはまったく無関心で、あたかもうっかりその上に腰を下ろしてしまっただけの、靴とか、人形とか、テニスラケットの握りみたいなもので、わざわざどけるのも面倒だという感じだった。

 若島訳は原文直訳に近いので、ロリータがハンバート・ハンバートの勃起した男根の上に座っているという位置関係がわかりにくい。うっかりするとハンバート・ハンバートのけしからぬ行為を読みすごしてしまうかもしれない。再読した時にわかるように、わざとわかりにくく訳したのかもしれないが、ここはそういう箇所ではないと思う。

 最後は失踪したロリータを探してボロボロになったハンバート・ハンバートがロリータとの関係をふりかえる条である(第2部第32章)。

 彼女とのはじめての旅の途中――最初の極楽めぐりのあいだの――ある日、私は、おのれの幻想を心安らかに味わうために、いやでも気づかずにいられない事実を――彼女にとっては私がボーイフレンドでもなければ魅惑的な男でも友だちでもなく、一個の人間ですらなく、ただ二つの目と赤く充血した一本の肉の足(言っていいことだけを言おうとすると、ついこんなことを言ってしまうのだ)にすぎない事実を無視しようと堅く心に決めた。

 「赤く充血した一本の肉の足」はわかりやすいけれども、くだきすぎである。原文は"a foot of engorged brawn"であり、a foot of snow が「雪の足」ではなく「一フィートの雪」であるように「一本の肉の足」は誤訳というべきだろう。誤訳を承知でわかりやすしたのかもしれないが。

 若島訳は原文に忠実だが、それだけにおやと思う箇所がある。

 私たちが最初に旅行したあいだ(いわば第一回目の楽園めぐりだ)、幻影を心穏やかに楽しむために、私が彼女にとってはボーイフレンドではなく、魅惑の男性でもなく、友達でもなく、まったく人間ですらなくて、ただ単に二つの目と一フィートの充血した肉でしかないという(ここに書けることだけを書けばの話)、目にせざるをえない事実をかたくなに無視することに決めた日があった。

 30cmの男根というのはいくらなんでもありえないだろう。日本語だけを見ていると、こちらの方が誤訳ではないかと思う人がいてもおかしくない。もしかしたらこれは誇張表現であり、ゲラゲラ笑うところなのかもしれない。そうだとしたら、若島訳のようにひっかかるように訳すべきということになる。

 若島訳の特質は優雅で伝統的な文学的表現と俗悪なアメリカ口語の衝突を日本語で再現しようとしたところにあるだろう。丸谷氏の大久保訳批判に代表されるように、これまでナボコフというと文学的な本歌どりの面ばかりが強調されてきたが、『ロリータ』については他の文学作品への言及といってもポオの「アナベル・リー」、メリメの『カルメン』、キャロルの『不思議の国のアリス』を押さえる程度で十分のようだ。本歌どりよりもむしろ雅語と俗語の衝突という俳諧的な面が濃厚であって、大衆文化への引照こそが『ロリータ』の言語宇宙の柱となっている。

 大久保訳は確かに流麗で文学的であるけれども、『ロリータ』に関するかぎり、文学趣味だけでできあがっているわけではなく、不協和音が必要なのだ。若島訳の意義はそれに気づかせてくれたことにある。

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