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『誰も読まなかったコペルニクス』 ギンガリッチ (早川書房)

誰も読まなかったコペルニクス

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 科学革命の端緒となったコペルニクスの『回転論』は1453年の初版が273部、1566年の第二版が325部残っているが、著者のギンガリッチは世界中を飛びまわって現物にすべてあたり、本の現状と来歴、補修の有無、書きこみを調べ、2002年に『コペルニクスの『回転について』の注釈つき調査』として出版した。本書はそのメイキングというべき本である。

 ギンガリッチが『回転論』を調べようと思いたったのはエジンバラ王立天文台でびっしり書きこみのある初版本を見つけたことにはじまる。アーサー・ケストラー天文学の歴史を描いたベストセラー『Sleepwalkers』(日本ではケプラーの章だけが訳されている)で『回転論』を「誰も読まなかった本」と決めつけたが、書きこみがあるということは読んだ証拠である。しかも書きこみは宇宙論を述べた第一章ではなく、天文計算を解説した難解な第二章以降に集中していた。書きこみの主がヴィッテンベルク大学でレティクスの同僚だったエラスムス・ラインホルトだったことがわかると、ギンガリッチの好奇心に火がついた。ラインホルトが書きこんでいるなら、ティコ・ブラーエやケプラーガリレオも書きこみを残しているのではないか。書きこみを通して『回転論』が科学革命の渦中でどのように読まれ、どのような影響をおよぼしたのかがさぐれるのではないか。

 かくしてギンガリッチの『回転論』追跡の旅がはじまる。まずは滞在していた英国からはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、エジプト、ソ連、中国にまで足を伸ばす(中国にはイエズス会の宣教師が皇帝への贈物として二部もちこんでいる)。アメリカにはコンピュータ化された稀覯書の目録があったが、これが当てにならなかった。入力するのは学生アルバイトなので、後世作られた初版の複製を誤って初版と登録している例が多かったのだ。

 モスクワの国立レーニン図書館には六冊あるはずだったが、六冊目はどうしても見る許可がおりない。ソ連崩壊後にわかったことだったが、ソ連軍がドイツから戦利品として奪ってきた本だったのである。

 ヨーロッパの田舎町の小さな図書館にまで初版本が眠っているというのは驚きだった。そうした図書館は管理がゆるいので盗難にあい、オークションに出品されるケースがある。ギンガリッチはオークションの目録でそれらしい本を見つけると図書館に連絡をとるが、小さいところでは迅速な措置がとれないという。オークション会社は後のトラブルを恐れ、『回転論』が出品されると事前にギンガリッチに鑑定を依頼するようになったということである。現存するすべての『回転論』を見ているわけだから、盗品ならすぐにわかるわけだ。

 オークションでは百万円を超える値段がつくので贋物や「ソフィスティケートされた本」と呼ばれる補修本がすくなくない。「ソフィスティケートされた本」とは欠損のある本物二冊から完全な一冊を作ったり欠損部分を複製で差し替えた本で、贋物とはいえないが値段は大幅に下がる。

 贋物や「ソフィスティケートされた本」を見破るためには印刷史や出版史の知識が不可欠となる。当時の本は仮綴じさえせず印刷した紙の束のまま販売したので装丁は一冊一冊異なり、決め手にはなりにくい。

 ポイントとなるのは紙だ。紙には製法上、鎖線と呼ばれる平行線の透かしがはいたが、印刷工房によっては意図的に透かしをいれている場合もある。『回転論』の初版を印刷したペトレイウスはPという透かしをいれていたので、真贋を判断する手がかりとなる。

 初版発行部数を推定する条もおもしろい。ガリレオの『天文対話』のように発行部数がわかっている本もあるが、『回転論』は初版も第二版も記録がない。ギンガリッチはペトレイウスの印刷工房の印刷能力を推定するところからはじめる。印刷の前日に紙を水でぬらし半乾きの状態で印刷していたとか、蘊蓄を思う存分披露してくれている。

 初版・第二版あわせて千部前後というのがギンガリッチの結論だが、とすると残存率は60%になる。この数字はニュートンの『プリンキピア』とほぼ同率だそうである。

 肝心の書きこみであるが、ティコ・ブラーエの書きこみを発見したとよろこんだのもつかの間、ギンガリッチのライバル学者(こういう超マニアックな分野にライバルがいること自体すごい)がまったく同じ書きこみのある本を見つけ、謎解きを迫られる条が前半の山場となる。

 まったく同じ書きこみが複数の本に異なる筆跡で見つかる例は他にもあった。どうも先生の書きこみを弟子が自分の本にそのまま書き写す習慣があったらしいのである。先人の書きこみに後の所有者が補足や反論の書きこみをしている例も多かった。本が貴重品だった時代、本の書きこみが知の共有手段として機能していたわけだ。

 電子書籍でも書きこみは可能だが、誰が書きこんだかを筆跡で確定するといったことができなくなる。電子書籍時代の幕開けをむかえるにあたって、紙の本の思いがけない使われ方を知っておくのは必要なことだろう。ギンガリッチはそんなことは考えていないだろうが、本書は時宜にかなった出版ではないかと思う。

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