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『<small>哲学の歴史 05</small> デカルト革命』 小林道夫編 (中央公論新社)

デカルト革命 神・人間・自然

→紀伊國屋書店で購入

 中公版『哲学の歴史』の第五巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は副題が「デカルト革命」となっており、17世紀に起きた知の大変動をあつかう。従来の哲学史でいうと大陸合理論にあたるが、最後の章でニュートンをとりあげていることからもわかるように科学革命をも視野におさめている。

「総論 神・人間・自然」

 17世紀はルネサンスにつづく時代だが、こと哲学の世界ではルネサンスの新思潮は影が薄く、依然としてアリストテレス主義=スコラ哲学の支配がつづいていた。

 アリストテレス主義=スコラ哲学に対するさまざまな批判がはじまっていたが、本書ではデカルトの『省察』に付された「論駁と答弁」が当時の思想状況そのものを反映すると評価し、前半では「論駁」をおこなった六人の哲学者からホッブズガッサンディ、アルノーの三人を選んで論述を進め、デカルト革命の意義を明らかにする。

 デカルト革命とはアリストテレスの学問体系を根柢から解体し、機械論的自然学を確立することにほかならない。その成果が『哲学原理』であって、ニュートンは『哲学原理』第二部をベースに天体力学を構築することになるが、一度このような体系が立てられると、対抗してさまざまな体系が提案されるようになる。スピノザライプニッツ、マルブランシュ、フォントネルらで、いわゆる大陸合理論の系譜である。

「Ⅰ ホッブズ

 ホッブズはスペイン無敵艦隊襲来が噂された1588年に英国南部のマームズベリ近郊で牧師の息子として生まれた。早くから古典語で才能をあらわし、オックスフォード大学のモードリン・ホールに学び、1608年に学寮長の推薦でキャヴェンディッシュ家の家庭教師になる。

 家庭教師は貧しい若者が聖職者にならずに学問をつづけるための職業で、教え子が成人した後も秘書兼顧問として仕えることが多かった。当時の貴族は手紙や文書を代筆したり、通訳や翻訳のできる人材を必要としていたのである。

 大貴族の家庭教師になってしまうと一家を構えることができなくなるが、主家の蔵書と人脈が利用できた。ホッブスガリレオを訪問し、デカルトと会食する機会をもったが、これはキャヴェンディッシュ家の人脈のおかげだった。

 ホッブズの教え子のウィリアム・キャベンディッシュは38歳で急逝するが、その息子のデヴォンシャー伯爵の家庭教師になり、またウィリアムの従兄弟のニューカスル伯とその弟のためにも働くようになる。ニューカスル伯は王党派の指導者だったので、清教徒革命がおこるとホッブズもパリに亡命し、亡命宮廷でチャールズ二世の教育をまかされることになる。

 ホッブズは主家の意を受けて王党派の論客となるが、『法の原理』と『市民論』は歓迎されたものの『リヴァイアサン』では裏切り者と排撃される。ホッブズの主家は議会と妥協して帰国する道を選んだが、『リヴァイアサン』は議会との妥協を正当化するために書かれたと見なされた。

 王政復古で即位したチャールズ二世はホッブズを庇ってくれたが、『リヴァイアサン』の悪評は尾を引き、ロンドンの大火まで『リヴァイアサン』のせいにされてしまう。

 とはいえ晩年のホッブズはデヴォンシャー伯爵家に引きとられて穏やかに暮らし、好きな古典の翻訳を手がける毎日で、1679年に91歳という非常な長命で生涯を閉じた。

 ホッブズと言えば『リヴァイアサン』であるが、その前提となる体系は『哲学原論』三部作で展開されていた。『物体論』、『人間論』、『市民論』という構成からわかるように、唯物論的な自然学を基礎に人間を説明し、その身もふたもない人間観を基礎に国家の必然性を説明した。高度な知的能力も物理的・生理的な過程に還元されるという立場を貫徹し、国家をも「物体」と見なして、そのメカニズムを腑分けした。

 『物体論』の「あらゆる推論は加算と減算という精神が行なう二つの操作へと還元される」という主張から人工知能研究の祖父と見なされているそうである。

 『リヴァイアサン』ではこのラジカリズムをキリスト教に適用し、聖書批判にまで踏みこんでいるという。

 こんな面白い人だとは思わなかった。『リヴァイアサン』はぜひ読もう。

「Ⅱ メルセンヌ

 メルセンヌホッブズと同じ1588年にフランス北西部のオワゼに農民の子として生まれた。ル・マンのコレージュで古典語を学び、1604年に近くにラ・フレーシュ学院が設立されると特待生となった。ソルボンヌで神学を修め、1611年、ミニム会で修道士となった。1619年からはパリのロワイヤル広場のミニム会修道院に定住し、公式にはマレ地区修道院の司書として活動した。同修道院の蔵書は1644年に8000冊、革命で閉鎖された時には2万冊を超えていたという。

 ミニム会の名はフランチェスコの教えを徹底して「最も小さな者」と称したことにより、最も厳格な規律で知られていたが、総会長から料理番にいたるまですべて選挙で選ぶという面もあった。

 16世紀には新教徒の改宗をうながす説経師として活躍し、17世紀になるとオラトワール会とともにフランスカトリック再生に尽力した。ヘルメス主義やピュロン主義などルネサンスの異教哲学と対決したが、スコラ哲学にもどれないことにも気がついていて、新しい自然学の動向を積極的に受けいれ、多くの研究者を出していた。

 メルセンヌデカルトに協力して機械論的自然学の確立に邁進したのも、こうしたミニム会の方針にそったものだった。機械論的自然学によって異教的自然哲学や懐疑論が論駁できると目論んでいたわけだ。

 保守的な修道院にいて、メルセンヌはなぜあんな勝手なことができたのだろうと不思議に思っていたが、ミニム会の特質から説明されると理解できる。

「Ⅲ ガッサンディ

 ガッサンディは1592年、プロバンスのディーニュ近郊の村で農民の子として生まれた。ディーニュのコレージュで人文学を学び、1604年に剃髪式を受け聖職者になる。エクス大学で哲学と神学を修め、1614年にはアヴィニョン大学で神学博士の学位をとり、1616年にはエクス大学の哲学教授になるが、1622年、エクス大学の教授職がイエズス会に委ねられたために辞職。1624年以降は同郷の有力者ペイレスクの庇護のもとにパリとエクスを行き来しながら研究をつづける。

 ペイクレスは青年時代にイタリア、英国、オランダを旅し、各地の学者と交流し、自然誌的観察と実験を重んじた。占星術や魔術を否定、自宅図書室と陳列室を学者に開放して科学の普及につとめた。

 ガッサンディは1626年からエピクロス研究にとりかかるが、1628年にオランダを訪れベークマンと知りあい原子論の可能性を知らされ、エピクロス復興に本腰をいれる。

 エピクロス復興は20年がかりの大仕事になるが、その途中、メルセンヌからの依頼でデカルトの『省察』に論駁を書き論争になる。ガッサンディデカルト批判はその後にあらわれる批判を先取りするラジカルなものだったが、ガッサンディ自身にも正統信仰とエピクロス流の唯物論の矛盾をつきつけることになる。ガッサンディは信仰との整合をはかるために唯物論の一貫性を放棄しなければならなくなる。

 1645年にはパリ王立学院数学教授に推挙され、一年間天文学を講じる。1655年、63歳で死去。

 ガッサンディリベルタンの系譜の人かと思いこんでいたが、まったくの誤解だった。信仰のために唯物論から後退し、魂の非物質性を論証していたとは意外だったが、知識は漸進的に進歩するという経験的な懐疑主義は維持したということである。

「Ⅴ アルノー

 アントワーヌ・アルノーは1612年オーヴェルニュ出身の法服貴族の家系に生まれる。同名の父はパリ高等法院の弁護士だったが、なんと20人の子供に恵まれた。アントワーヌはその末子である。

 父は1594年のパリ大学イエズス会の紛争で大学側の代表として勇名を馳せ、イエズス会の追放に一役買ったが、そのためにアルノー一族はイエズス会に狙われることになる。

 アントワーヌ・アルノーは法律家を目指すが、サン=シランの影響で聖職者の道に進み、1641年ソルボンヌの神学博士になる。母カトリーヌは夫と死別後、ポール・ロワイヤル修道院にはいり、姉たちもプロテスタントのイザク・ルメートルと結婚した長姉カトリーヌ以外はすべてポール・ロワイヤルの修道女になる。中でも高名なのはアンジェリク教母と呼ばれたジャクリーヌで、弛緩していた規律を立てなおし、1602年にポール・ロワイヤル修道院の院長に就任する。ポール・ロワイヤル修道院ジャンセニスムの拠点となり、弾圧を受けたのはよく知られている。

 アルノーはポール・ロワイヤルの理論的指導者になり、八面六臂の活躍をくりひろげるが、1655年パリ大学から追放され、1679年にはルイ14世の弾圧のためブリュッセルに亡命を余儀なくされる。

 アルノーは『省察』の論駁を依頼されると、デカルト哲学はキリスト教の新たな支柱になると確信し、アウグスティヌスとの一致を強調した第四論駁を書く。デカルトはアルノーの論駁を最も評価し、懇切な答弁を返した。

 アルノーは四折版で42巻の全集ができるほどの厖大な著作を残したが、その多くは他人の本の批判や論争文だったので、独自の思想が見えにくく、今日では『ポール・ロワイヤル論理学』を除くとデカルトパスカルの関係で言及されるにとどまっている。

「Ⅵ デカルト主義の発展」

 デカルトの体系はアリストテレス=スコラ哲学に全面的にとってかわるものだった上に、神の自己原因論や永遠創造説など神学にもおよんでいたために、カトリックプロテスタント双方で問題視され、生前からユトレヒト事件やレイデン事件のような迫害を受けていた。

 その一方、メルセンヌやアルノーのようにデカルトアウグスティヌス化し、護教論としてとりこもうという動きも盛んだったし、デカルトの体系の難点を過剰解釈で解決しようという意識的・無意識的を問わず横行していた。

 本章はそうしたデカルトの体系をめぐる右往左往をとりあげている。

 まず、遺稿の管理をまかされたクロード・クレルスリエである。クレルスリエは熱烈なデカルト主義者で、熱心さのあまりデカルト自身が目を通した『省察』のリュイヌ公の仏訳を修正したり、デカルトが望まなかった「第五論駁と答弁」を仏訳『省察』に掲載したりした。1905年にはホイヘンス宛自筆書簡が発見され、クレルスリエの編纂した書簡集は改変されていたのではないかという疑惑がもちあがる。

 またクレルスリエは心身相関の疑問を解決するために松果腺は脳内精気の速度を変えることはできないが、方向は変えられるという「方向転換テーゼ」をすべりこませた疑惑もある。デカルト自身は速さの変化と方向変化を区別していなかったし、『情念論』などでは精神の介入で運動量保存則が破られるとしていたから、この解釈は明らかにこじつけである。

 デカルトアウグスティヌス化は没後に本格的になるが、内面回帰による自己確認は確かに軌を一にするものの、「人間精神の無力化」までいってしまうと箇条解釈であろう。デカルトはストア主義を堅持していたからである。

 没後出版の『人間論』の図解と注釈に協力した医師のラ・フォルジュは1665年に刊行した『人間精神論』で機会原因論デカルトに読みこみ、精神と身体の能動・受動を「相互依存関係」「連動関係」に希薄化しているという。

 1664年にデカルト『世界論』の付録として「物体作用論」を発表したコルモドアは『物体と魂の識別』で人間精神が身体を動かせない根拠として不随意運動をあげ、心身関係についての機会原因論を展開しているそうである。

 精神と物体を峻別した以上、精神が物体を動かすというのは無理があり、背後にいる神が精神と物体を同時に動かすという論理構成にしないとおさまりがつかないのだろう。マルブランシュ以前から機会原因論デカルトの体系の内在的批判として提唱されていたのは注目していい。

「Ⅶ パスカル

 ブレーズ・パスカルは1623年クレルモンの法服貴族の家に生まれた。姉に弟の伝記を書いたジルベルト、妹にポール=ロワイヤル修道院に入ったジャクリーヌがいた。父エティエンヌは租税法院副院長だったが、母の早逝後、子供たちの教育のために官職を売却してパリに移る。

 パスカル家の財産はパリ市債に投資されていたが、支払いが停止されたために父は抗議活動に参加、お尋ね者になってしまう。ジルベルトはリシュリューのための子供芝居で赦免を願った詩を朗読、父は許されノルマンディーの徴税副総監に抜擢されて一家はルーアンに移る。

 パスカルは早くから数学の才を発揮し、17歳で「円錐曲線論」を発表、射影幾何学におけるパスカルの定理を確立する。父の徴税業務を手伝い、歯車式計算機を考案したのもこの頃だ。

 20代になるとサン=シランの弟子たちの感化を受けジャンセニスムに接近するが、健康を害してパリにもどり社交生活と科学の実験にあけくれる。特筆すべきは一時帰国していたデカルトと会ったことだ。科学者としての名声は国際的になっていたのである。

 1653年ヤンセンの五命題が異端とされ、アルノーがソルボンヌから追放されるとパスカルは『プロヴァンシャル書簡』と呼ばれることになるパンフレットを書いてジャンセニスム擁護の論陣をはる。難解な神学論議を軽妙かつ明快に解説したフランス古典主義時代屈指の名文である。

 この頃から『キリスト教護教論』の執筆にとりかかり、そのためのメモが没後『パンセ』として出版されたのはご存知の通りである。

 体を壊し、『護教論』の執筆は何度も中断を余儀なくされている。1662年救貧活動のためにパリで初の乗合馬車会社の設立に参加するが、8月に姉の家で亡くなる。39歳だった。

 『パンセ』が『護教論』の下書だったことは確かだが、だからといって『護教論』にすべて回収されてしまうわけではない。『護教論』からはみだした部分もあるのだ。この章の筆者は以下のように述べている。

 『パンセ』を護教論の土俵に閉じ込めることはけっしてできない。それは、『護教論』の構想を中心にして、その手前側には人間と理性の領域、その向こう側には神と信仰の領域が三層構造をなして果てしなく広がる、未完の書物である。そしてそれぞれの断章(パンセ)は散乱しながら、目には見えない全体を己の内に映し出している。『パンセ』は比較的小ぶりな体裁の中に、幾重もの無限を包み込んだ、一つの小宇宙なのである。

 ライプニッツモナド論を下敷きにした書き方だが、ある面を言い当てていると思う。

「Ⅷ スピノザ

 ベネディクトゥススピノザは1632年アムステルダムユダヤ人居住区で生まれた。父ミゲルはイベリア半島から逃れてきた「マラーノ」で、家ではポルトガル語を使っていた。地中海の果物の輸入に従事し、ユダヤ人共同体ではパルナシム(行政監事)を歴任した有力者だった。

 マラーノはイベリア半島で世俗的な生活を送っていたので信仰心が弛んでいた。異郷で暮らしていくためにアシュケナージ系ラビから律法を学んで結束を高めたが、一方厳格な戒律に違和感をいだく者もいた。

 スピノザはタルムード・トーラー学院に入学し伝統的な宗教教育を受けた。学院には後にスピノザに破門を言いわたすことになるサウル・レヴィ・モルテラのようなアシュケナージ系の厳格なラビがいる一方と、クリスティーナ女王やグロティウスと文通していたメナッセ・ベン・イスラエルのような開明的な知識人も教えていた。

 1652年第一次蘭英戦争で船が沈められ、スピノザ家は大損害をこうむった。2年後、父が亡くなり、多額の借金が残った。スピノザは弟とともに貿易業をつづけたが、取引を通じてコレギアント派というリベラルなキリスト教徒と親しくなった。コレギアント派とは主流となった厳格なゴマルス派以外の諸派のことで、デカルト主義者が多かった。

 スピノザは自由思想家のファン・デン・エンデンのラテン語塾に通ってデカルトを学び、ユダヤ教に対する疑問を公然と口にするようになった。

 1656年当人不在のまま破門宣告文がシナゴーグで読み上げられた。破門の背景にはオランダにおける反デカルト主義の高まりがあったようだ。破門を機にスピノザはバルーフというポルトガル名ではなく同義でラテン語ベネディクトゥスを名乗るようになった。

 ユダヤ人共同体にいられなくなったスピノザはコレギアント派の友人の支援を受けて各地を転々とした後、1661年頃にはレイデン近郊でコレギアント派の本拠地であるレインスブルフに居を定めたらしい。レンズ磨きと光学研究をはじめたのもこの頃だ。レイデン大学でデカルト派の講義を聴講し、学生もスピノザのもとを訪れた。神学生ヨハネス・カセアリウスが下宿するようになり、デカルトの『哲学原理』第二部を幾何学的に再構成してカセアリウスに筆記させた。後に友人たちのもとめで第一部も幾何学的に再構成し、『デカルトの哲学原理』として刊行したが、マイエルの序文でスピノザデカルト一辺倒でないことが明記された。

 ロイヤル・ソサエティのオルデンバーグが来訪し文通がはじまった。オルデンバーグがボイルの論文を送ったことからボイルと論争になる。

 スピノザは『エチカ』を準備していたが、デカルト派と神学者の対立が激化すると執筆を中断して『神学・政治論』にとりかかった。スピノザは哲学と神学は両立しないという偏見が対立の原因と考えたが、1670年に匿名出版するとデカルト派からキリスト教の根本に対する「猛毒」を含んだ無神論の書と非難された。今読むとまったく当たり前のことしか書かれていないが、現在の当たり前が17世紀には「猛毒」だったわけである。

 1673年、『デカルトの哲学原理』を読んだプファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒ(エリザベートの兄)の肝煎りでハイデルベルク大学から招聘されたが、スピノザは断った。オランダに侵攻していたフランス軍司令官コンデ公から招待されたこともあったが、コンデ公が帰国したために会見はかなわなかった。

 1675年『エチカ』出版にアムステルダムに行くが、無理と悟った。翌年、帰国途中のライプニッツ訪問し、『エチカ』の一部を読んだ。

 1677年2月21日、肺結核で死去、34歳だった。同年、ラテン語遺稿集とオランダ語訳が後援者たちによって刊行されるが、すぐに「不敬で無神論的で冒瀆的な書物」として禁書になる。

 さて『エチカ』だが、本章の著者は幾何学的順序にこだわらず、基本用語の意味を種明かししている箇所から読めと勧めている。具体的には第二部冒頭から「自然学的付論」にいたるまでの箇所、特に定理7備考(平行論テーゼ)である。

 延長実体を電光掲示板になぞらえた解説はわかりやすい。

 われわれに立ち現れるさまざまな物体やそれらの振る舞いは、運動と静止という二タイプの様態が描き出す図柄にすぎない(すなわち、基体としての物体が存在するわけでも移動するわけでもない)。それは、電光掲示板に立ち現れる物体やその振る舞いが、光と闇という二つの状態が描き出す図柄にすぎないのと類比的である。

 倫理説については個体に内在する自己保存の努力(コナトゥス)を中心に整理していてわかりやすいが、永遠性の気づきをハムレットが作者に気づくという比喩で説明しようという条はわりきりすぎではないだろうか。

「Ⅸ マルブランシュ」

 マルブランシュはルイ14世と同じ1638年に生まれたが、亡くなった年も同じ1715年である。父はリシュリューのもとで徴税財務官をつとめたやり手だったが、マルブランシュは生まれつき脊椎に異状があり病弱だった。学校に通いはじめたのは16歳になってからだった。

 ソルボンヌで神学を修めてから1660年にアウグスティヌスを奉じるオラトワール会にはいり、修道院の中で研究一筋の生活を送った。唯一事件といえるのは1664年に露店で手にしたデカルトの『人間論』に衝撃を受け、数学とデカルト哲学に専心するようになったことくらいか。1699年『運動伝達の諸法則論』で王立科学アカデミー会員に推挙され、1713年にパリ滞在中のバークリーと会見したことも事件といえるかもしれない。

 マルブランシュの思想はロビネにしたがって五段階にわけて考えるのが一般的だそうだが、思想は段々に深まっていき、深まりにともなって過去の著作を何度も改訂している。デカルトの全集が6巻なのに対し、マルブランシュの全集は20巻を数える。

 マルブランシュはデカルトの「精神から感覚を引き離す」というテーゼから出発したが、それを神中心に組み換えていく。マルブランシュの考える観念は個々の人間精神に内在する観念ではなく神の内なる観念であり、真の認識は「注意」を機会に神の内なる観念が魂を触発して生じる。「神においてすべての事物を見る」わけだから人間の認識はそれ自体で普遍性を有するとされる。

 ここで叡智的延長étendue intellgibleという異様な概念が登場する。

 神は永遠かつ普遍的な存在だから、神の内なる観念は事物の創造に先立って存在していなければならない。事物の原型としての観念があるはずであり、それが叡智的延長である。あくまで原型なので実際の拡がりはもたないが、神は観念間の関係を数学的な「大きさの関係」という真理として認識しており、叡智的延長は物体認識の普遍的・関数的な条件となっている。

 しかも叡智的延長は無限にありうる可能世界の原型であり、神は栄光を顕現させるために一つの可能世界を自由な選択で創造するとされる。人間が認識する個別の感覚化された観念は叡智的延長の一部でしかない。

 読んでいてどきどきしてきた。これ、ロイドの『宇宙をプログラムする宇宙』やサイフェの『宇宙を復号する』、ビレンケンの『多世界宇宙の探検』で語られている量子情報理論そのままではないか。マルブランシュは量子情報理論を先取りしていたのだろうか。

「ⅩⅠ ベール」

 ピエール・ベールは1647年ピレネー山麓の寒村ル・カルラに改革派(カルヴァン派)の貧しい牧師の子として生まれた。学校に行く余裕はなく、父から古典語の手ほどきを受けたが、1668年になってピュイローランスの改革派大学に入学するも満足できず、トゥールーズイエズス会の学院に移る。イエズス会の学院で学ぶためにカトリックに改宗したが、1670年にはプロテスタントにもどり忌み嫌われた「再転落者」になってしまう。ベールはフランスにいられなくなってジュネーヴに亡命し、家庭教師をしながらジュネーヴ大学で神学とデカルト哲学を学ぶ。

 1675年にセダンの改革派大学の哲学教授になるが、同僚に後に仇敵となるジュリュー(1637-1713)がいた。ルイ14世の親政とともにはじまったプロテスタントに対する圧迫は過激化し、ドラゴナードと呼ばれる強制改宗運動が猛威をふるい、最終的に数十万人が亡命することになる。セダンの改革派大学は1681年に閉鎖させられ、ベールはロッテルダム高等学院の哲学・歴史教授職に招聘された。この頃、1680年にあらわれた彗星をめぐる迷信を批判した『彗星雑考』を刊行している。

 1685年にマンブールの『カルヴァン派史』に対する反論を匿名で発表するが、ばれてしまい、故郷で牧師となっていた兄ジャコブに累がおよぶ。ベールは「自然の光」にもとづく批判精神を堅持し、絶対の寛容を説いた。信仰においては強制はいっさい排除されるべきで、プロテスタントも例外ではない。ベールはカトリックに対しては暴力を用いてよいとするプロテスタント正統派を「半寛容派」として糾弾した。1693年ベールはプロテスタント内の路線闘争に敗れ職を失う。1706年ロッテルダムで死去。

 ベールの主著は1696年に初版の出た『歴史批評事典』である。体裁は人名事典だが、生涯と事績の後に長大なベールの注解がつく。ベールはこの事典を「文芸共和国」と呼び、「この共和国はきわめて自由な国家である。そこでは真理と道理の支配しか認められず、両者の庇護のもとに誰と戦争をしても罪にはならない」とした。

 18世紀啓蒙主義は『歴史批評事典』から宗教と形而上学の破壊だけを読みとったが、ベール本人は「理性は証明し建設するより、反駁し破壊することに長けている」と理性の限界を説き、「理性を用いるにあたって、神の援助を必要としないものはいない」という信仰主義を基本とした。

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