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『スフィンクスは笑う』 安部ヨリミ (講談社文芸文庫)

スフィンクスは笑う

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 安部公房の母、ヨリミが新婚早々安部公房を妊娠中に書いた小説である。

 ヨリミは1899年、旭川のはずれの開拓地東高鷹村に生まれ、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)に進むが、社会主義団体のビラを校内にはりだしたために放校になる。1923年、24歳の時に同郷の安部浅吉と結婚するが、押しかけ結婚だったという説もあり、相当はねっかえりのお嬢さんだったようである。浅吉は満州医科大学附属病院の医師だったが、たまたま東京の栄養研究所に留学中だった。新婚の二人は府下滝野川区で暮らしていたが、9月に関東大震災にあう。結婚、妊娠、地震があいついだ慌ただしい年に書かれたのが本書である。

 『スフィンクスは笑う』という題名からまず思いつくのはスフィンクスの謎かけである。「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物はなにか」という例のあれである。

 答えは人間ということになるが、本書にも三つの視点が存在する。

 まず、道子の視点。道子は兄の一郎の親友である医師の兼輔と結婚し、昼は三越、夜は帝劇となに不自由ない新婚生活を謳歌していたが、ある時、夫の荷物の整理をしていてトランクに大事にしまわれていた女からの恋文を発見し、愕然とする。差出人は郷里の渡辺病院の娘、澄子となっていたが、筆跡は澄子の妹で道子の同級生だった安子のものだったからだ。

 道子は兼輔と澄子が交際しているという噂は知っていたが、澄子が婿養子をとったので安心して兼輔と結婚した。ところが兼輔の意中の人は安子であり、恋文の文面からすると安子は兼輔に処女をあたえていた。

 兼輔の愛を信じきっていた道子は彼を激しく問い詰めるが、兼輔は道子の兄の一郎への友情のために身を引いたのだと答える。兼輔は一郎が安子を愛しているのを知り、彼をあきらめさせるために安子の貞操を奪ったことを告げるが、一郎は肉体の関係などなんでもない、再婚のつもりで結婚したいと答えた。兼輔は親友の愛の深さに圧倒され、安子を譲ったのだという。

 ところが安子は一郎の求婚を拒否して奔放な生活をはじめる。一郎は困り果てて兼輔と道子に相談するために上京する。兄の話を聞いた道子は、安子は処女ではない引け目から結婚をためらい、兄をあきらめさせるためにわざと自堕落にふるまっているのだろうと解釈するが、そこへ安子出奔の知らせが届く。

 道子の視点ではすべては善意と友情から発している。兼輔が安子をあきらめたのは友情のためだし、安子が結婚を拒んだのも貞操を失った申し訳なさのためだという具合で、ほとんど白樺派のパロディである。

 ところが後半になり、視点が安子に移ると解釈は一変する。ネタバレになるので詳しくは書けないが、すべては男のエゴイズムから発したことで、安子は肉体をあたえた恋人に裏切られたばかりか、義兄にも裏切られたジェンダーの被害者なのだ。オセロゲームではないが、白だったはずのものが一斉に黒にひっくり返っていく怒濤の展開に啞然とさせられる。

 有閑階級の男たちの偽善に傷ついた安子は野田という小説家志望の苦学生と駆け落ちして貧農の暮らしに突入していくが、これがまた飢えと肉欲の支配するエゴイズムの世界で、ほとんど自然主義のパロディである。

 しかし最後の最後になって、さらに視点の転換がある。野田の視点である。野田から見ると、安子の受難物語はどう見えるのか。

 朝は四本足、昼は二本足、そして夜は……。スフィンクスはただ笑うだけである。

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