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『謎のチェス指し人形「ターク」』 スタンデージ (NTT出版)

謎のチェス指し人形「ターク」

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 ポオが26歳の時に書いたエッセイに「メルツェルの将棋差し」がある。

 メルツェルの将棋差しとはメルツェルという興行師が1826年にアメリカに持ちこんだチェスをさす自動人形オートマトンのことで、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアなどを巡業して好評を博した。ポオが見たのは10年近くたった1835年のことで、翌年、中に人間がはいっているのだろうと推理した件のエッセイを雑誌に発表した。モールスが電信の公開実験をやった頃のことである。

 邦訳は小林秀雄ボードレールの仏語訳から重訳し、大岡昇平が補訂したものが『ポオ小説全集1』にはいっている。後に書かれる「モルグ街の殺人」や「黄金虫」を思わせる水際立った推理で、今読んでも面白い。

 メルツェル自身もすぐれたオートマトン製作者だったが、チェス指し人形はメルツェルが作ったものではない。作ったのはヴォルフガング・フォン・ケンペレンというマリア・テレジアの宮廷に伺候していたハンガリー貴族だ。

 ケンペレンは塩鉱山の管理者に任じられて揚水ポンプを発明したり、シェーンブルン宮殿の噴水システムを製作するなど技術者として立派な業績があったが、1769年秋、マリア・テレジアの前で奇術を披露したフランス人の態度があまりに不遜だったので自分ならもっとすごい機械がつくれると口走ってしまう。面白がった女帝はケンペレンに半年間公務を免除し、オートマトン製作に専念するように命じた。

 半年後、ケンペレンはチェス盤を置いた平台の後ろにトルコ人の扮装をしたオートマトンをとりつけたタークという機械を女帝に披露する(タークとはトルコ人という意味である)。

 タークは人間相手にチェスで連戦連勝したので女帝は喜び、ヨーロッパ中の評判となった。

 ケンペレンの不幸は本筋の役に立つ発明よりもタークで有名になってしまったことである。自分はただの官吏で興行師ではないと任じていたものの、女帝在世中は何度もタークの実演を命じられ、ヨーゼフ二世の御代になると技術大使として二年間各地の宮廷を巡業させられることになる。フリードリヒ大王を負かしたとか、ベンジャミン・フランクリンも負けたとか数々の逸話が残っている。

 巡業終了後、ケンペレンはタークが壊れたことにして封印した。

 ケンペレンは1804年70歳で世を去ったが、世の中はタークを忘れていなかった。1809年、ナポレオンがウィーンに入城すると、新たな支配者の御機嫌とりのためにまたもタークが駆出された。今回タークを操作するのはメルツェルである。メルツェルはケンペレンの息子からタークを買いとり、自分で修理して動くようにしていた。

 かくしてメルツェルによってタークの第二のキャリアがはじまる。ヨーロッパのみならずアメリカにまで足を伸ばしたのは先に述べたとおりだ。

 タークの人気が高まると秘密を解明しようという者も増え、さまざまな推理が世をにぎわせた。

 チャールズ・バベッジは中に人がいることをすぐに見抜いたが、思考する機械というアイデアに触発され、後に機械式コンピュータである階差機関を発明している。

 タークは各地で武勇伝を残しているが、その栄光もメルツェルの死とともに終わる。メルツェルは多額の借金をしていたのでタークは競売に付され、最終的にポオの主治医だったミッチェル医師の手にわたる。

 ミッチェルはタークを買えるほど裕福ではなかったが、友人のポオの推理が正しかったかどうかを確かめるために75人の会員から500ドルを集め、やっと買いとったのだ。

 ポオの推理はあたっていたのだろうか? 詳しくは本書を読んでほしいが、ケンペレンは意外に手のこんだことをやっていたとだけ記しておこう。

 その後タークはチャイニーズ・ミュージアムという秘宝館のような施設に引きとられるが、1854年7月5日火事のために焼失してしまう。85年の生涯だった。

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