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『森鷗外の『うた日記』』 岡井隆 (書肆山田)

『うた日記』

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 森鷗外明治37年4月、第二軍軍医部長として日露戦争に出征した。以後2年近くを満洲の荒野ですごすが、そのおりおりに書きとめた詩歌をまとめ、明治40年に『うた日記』を出版した。

 本書は『鷗外・茂吉・杢太郎 「テエベス百門」の夕映え』につづく本で、『うた日記』をめぐる評釈と随想である。

 『うた日記』は新体詩58編、訳詩9編、長歌9首、短歌331首、俳句168句をおさめ、以下の5部にわかれる。

うた日記 343頁
隕石 39頁
夢がたり 31頁
あふさきるさ 20頁
無名草 51頁

 「うた日記」は『うた日記』の中核部分で、明治37年3月27日から明治39年1月1日までの日付のある新体詩長歌、短歌、俳句をおさめる。近代デジタルライブラリーで確認できるが、初版では「うた日記」の部分は頁の天に軍刀のカットがあしらわれており、うまいとはいえない挿画もはいっている(著者は編集者まかせにしたのでこういう本が出来上がったのではないかとしている。軍医は戦闘後に忙しくなるので確かに鷗外は多忙だったろう)。

 「隕石ほしいし」はドイツの戦争詩の邦訳9編からなる。創作詩と訳詩を対比させる趣好は次の『沙羅の木』に受け継がれる。

 「夢がたり」は新体詩6編、短歌43首で、文字通り夢想を歌っている。戦陣にあった鷗外の内面がもっともあらわれているとされている。

 「あふさきるさ」とは「ああも思い、こうも思う」という意味で、内地に出した書信に書き添えた即興の短歌28首、俳句12句、新体詩2編をおさめる。

 「無名草ななしぐさ」は妻しげ子になり代わって詠んだ歌で、三好行雄は「集中の白眉」と高い評価をあたえている。

 鷗外は日露戦争をはさんだ明治35年から40年までの5年間、作品をあまり発表していない。短編二編と評伝『ゲルハルト・ハウプトマン』、そして最大のものが『うた日記』である。

 鷗外が久々に上梓した本だったにもかかわらず『うた日記』は同時代的にはまったく話題にならず、まともに論じられた形跡もない。昭和9年になってようやく佐藤春夫の『陣中の竪琴』があらわれている。

 著者は『うた日記』が注目されなかった理由を二つあげている。

 第一に詩歌に不慣れな編集者が担当したのか、ページの上部に軍刀のカットをいれなど詩歌の本としては趣がなく、一般の詩歌好きの読者や、詩人、歌人俳人には「日露戦争の勝利の記念品」として受けとられていたらしいこと。雅号でなく本名で出版したことも、軍人森林太郎の作品という印象を強めたことだろう。

 軍人として出すにしても、単なる記念品でなく戦争体験を詠った作品として世に問うつもりなら、それなりの序文や後書があってしかるべきだろう。ところが鷗外は序歌にあたるものを巻頭に掲げたにとどまる。本当に記念品のつもりだったのかもしれない。

 第二に『うた日記』は文語体の韻文で一貫しているが、刊行された明治40年という年は近代詩歌史上文語体から口語体に移行する端境期にあたっており、最初から時代遅れと受けとられた可能性が高いこと。

 詩は、文語定型詩から、口語自由詩へと動いて行った。萩原作太郎の『月に吠える』(大正六年)が出たとき、それを評価した鷗外には、むろんこのような近代史詩の推移変貌はわかっていたであろうし、散文の上で『舞姫』など文語の近代的表現を完成させようと同時にそこから「半日」以降、現代語へと自ら書き改めて行った鷗外である。

 時代の流れをわかっていながら、鷗外はあえて文語体の調べにこだわり、韻文として完成させようと工夫を凝らしている。『うた日記』は慣れ親しんだ旧時代の詩形であえてつくられた本らしいのだ。

 鷗外は負傷したロシア士官が従卒につきそわれて治療を求めにくる一場を長歌で詠っている。応急処置をすませた後、鷗外は一応尋問するが、

軍情は  問へど答へず

答へねば 強ひても問はず

傷つける 身をいたはりて

病院へ  やがておくりぬ

 国際法で捕虜の黙秘は認められているから、それ以上追求することはなく、士官は病院に、従卒は捕虜収容所に送っている。ロシア兵の投降、治療、尋問といった戦場の出来事が五七調の優美な調べに自然にはまっている。殺伐とした戦場で慰めに作った歌というしかないだろう。

 新体詩も多くは五七調・七五調で作られていて、音数律においては短歌・長歌・俳句と共通しており、伝統的な韻律の流れに連なっている。新体詩といえども独立した作品としてあるのではなく、前後の短歌・長歌・俳句と響きあって、一つのストーリーを形成しているというわけだ。著者は「うた日記」は「戦陣にあった一人の中年の軍医の長編物語詩」として編纂されたんではないかとまで述べている。

 しかし伝統から一歩踏みだした作品もある。たとえば近年注目されている「罌粟、人糞」。

 「人糞」は「ひとくそ」と読むが、著者はタイトルの「罌粟」と「人糞」の大胆なとりあわせにまず驚く。内容はさらに大胆だ。戦場の性をテーマにしているからだ。

 兵の乱暴を怖れて隠れていた村の娘が見つかり、姦される。詩は兵の服装の描写からはじまる。

紐は黄 はかま

仇見る てだてに慣れて

をみなご たやすく見出でつ

ますらお 涙なく

いなめど きかんとはせで

あす来と 契りてゆきぬ

恥見て 生きんより

散際 いさぎよかれと

花罌粟 さはに食べつ

たらちね かくと知り

吐かすと のませたまひし

人屎ひとくそ 験なかりき

 娘は辱めを受けたまま生きていくよりはと罌粟の花を大量に食べ自殺をはかる。母親は毒を吐かせようと人糞を水で溶いて飲ませるが効果がない。そこで日本軍の野戦病院につれてきて吐瀉剤を懇望し、娘は一命をとりとめる。

 近年、娘を姦したのがロシア兵か日本兵かで議論になっているが、著者はそうした政治的な話柄には近づかず、安定した五七調ではなく、あえて四音・七音という不安定な音数律が選ばれている点に注目する。七五調の微温的な作品がつづく中で、この詩は形式においてもアヴァンギャルドなのである。

 四音・七音では長歌ではなく新体詩ということになるが、この詩の後には短歌が二首、まるで反歌のように置かれているのである。

磚瓦もて小窓ふたげるこやの雨に女子をみなご訴へうさぎうま鳴く

毒ながら飲みし花罌粟ふさはしき子よといはんもいとほしかりき

 一首目の「うさぎうま」とはロバのことで、「瓦をつんで小窓をふさいでいる小屋に雨が降っている。少女は、姦されたあとの苦しみを訴える。そして、同じ小屋の外では、ロバがいななく」というほどの意味である。

 著者は戦場の性をめぐる生々しい詩の後に牧歌的なロバのいななきをもってきた鷗外の手際を賞賛する。

この「うさぎうま鳴く」という結句がいいではないか。あるいは、訴えられている鷗外の、やや距離をとった立場を示しているとも言える。「この毒物である花罌粟にふさわしい美しい少女よと言いながらかわらいらしい思いがする」という二首目も、状況の切迫しているにしては美しすぎる気もする。つまり「罌粟、人糞」のエピソードを、あまり政治的に読む必要はないように思えるのである。あのように、韻律をととのえ、音数律に工夫をこらす詩人の手つきからは、やはり美的効果への関心が、作者鷗外にはあった、と言っていいように思える。

 ドラマチックなのはここまでで、この後は戦いと戦いのあいまの外地の平穏な生活を点描した俳句の連作がつづく。

 鷗外は現場で見聞したであろう戦場の性の問題を美的な慰めにとけこませてよしとしたのだろうか。そうではないと著者はいう。『うた日記』出版後、本格的に文壇に復帰した鷗外は従軍記者の性犯罪を描いた「鼠坂」など、社会的な題材をとりあげた作品をつぎつぎと発表するが、その姿勢は『うた日記』と無関係ではないというのである。

 日露戦争のあと、戦後の世界で鷗外が書いたものは、わたしには、どれも問題小説、課題評論のように思える。それらは『うた日記』を書いて、編んで、出版したことと、どこか深いところで、関連しているように思える。わたしはこの点、結論を急ぐつもりはないが、黙々と二年近くを満州の山野で戦ってすごした鷗外は、その記録を詩歌の形で、日記の形で残した。そしてそれは、必ずしも世の注目するところとはならなかった。このことが、戦後の旺盛で、問題提起的な作品群や、観潮楼歌会、「スバル」などの文学運動をひきおこすことになったのではないかと思っている。

 この推定が正しいなら『うた日記』の位置づけはおのずと変わってくるだろう。『うた日記』は鷗外が文壇に復帰する上で発条となった本なのかもしれないのである。

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