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『シンメトリーの地図帳』 マーカス・デュ・ソートイ (新潮社)

シンメトリーの地図帳

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 今回、途中で放りだしたのも含めると群論関係の本を13冊手にとったが、1冊だけ選べといわれたら、迷わず本書を選ぶ。わかりやすいというだけでなく、文章に含蓄があり、天才たちのエピソードの紹介にも人間的な奥行が感じられるのだ。本書は数学の啓蒙書を超えて一個の文学作品になっているといっていいだろう。

 著者のマーカス・デュ・ソートイは現役の数学者で、群論整数論を専門にしている。BBCの科学番組にたびたび出演していて(未見であるが、NHKから「オックスフォード白熱教室」として放映されている)、最初の著書『素数の音楽』は世界的なベストセラーになった。

 本書は数学者の一人語りの体裁をとっていて、40歳の誕生日の2005年8月から翌年7月までの1年間の出来事――家族旅行で訪れたアルハンブラ宮殿に平面で可能な17種類のシンメトリーを探したこと、沖縄で開かれた群論の小さな学会、共同研究者のいるドイツのマックス・プランク研究所への出張、自分の研究室の院生とのつきあい方等々――が語られ、それを縦糸として自分の生い立ちと群論の歴史が織りこまれていく。

 デュ・ソートイと数学の出会いは12歳の時の教師の勧めにさかのぼる。大学院で群論を専攻することを決めた際にはサイモン・ノートンに会いにいっている。

 サイモン・ノートンはジョン・コンウェイとともにあらゆる単純群を分類する「アトラス計画」を推進した群論の大御所である。『シンメトリーとモンスター』の後半では颯爽と活躍しているが、外観は颯爽とはかけはなれていた。

 わたしが目にしたのは、まるで浮浪者のような身なりの人物だった。もじゃもじゃの黒髪が四方八方におっ立ち、ズボンは折り返しのところがすり切れていて、着ているシャツは穴だらけ。まわりにたくさんのビニール袋があって、どうやらそこに、身の回りのものがすべて入っているらしい。かかしに似ている。「あの人が、サイモンだ」

 そうこうするうちに、大柄な男がわたしたちのほうにやってくると、ノートンの隣に腰を下ろした。こちらは相手が誰かわからないでいるのに、相手は当然わたしが自分を知っているものと決めこんでいるようだった。この人物も、やはり頭の毛があっちこっちにおっ立っていたが、髪の色は黒ではなく濃い赤で、わたしのほうを見てにやついているその目のきらめきは、怖いまでに荒々しかった。真冬だというのにサンダル姿で、でっぷりとした体をπの小数展開模様のTシャツに包み、ご機嫌な様子で座っている。いささか気の触れたピエロといった趣だ。わたしもじきに知ることになったのだが、この人こそが、海賊船ケンブリッジ号の船長ジョン・コンウェイだった。

 『シンメトリーとモンスター』とのなんという落差!

 二人の大御所以外にも現存の数学者がたくさん登場するが、いずれも期待にたがわぬ奇人変人ばかりで、縁遠いと思っていた数学の世界に親しみが湧いてきた。

 群論を説明するにあたり幾何学を前面に出すのは『シンメトリーとモンスター』と同じだが、方程式の歴史は丁寧に説明している。

 3次方程式の解法をめぐるタルターリアとカルダーノの諍いについてはタルターリアに同情的な人が多く、カルダーノは嘘つきの軽薄才子と相場が決まっているが、デュ・ソートイはカルダーノの言い分を十分紹介し、最初から騙すつもりではなかったとしている。

 カルダーノはタルターリアから秘密を聞いた後、数学書を2冊出版しているが、3次方程式の解法は載せていない。3冊目で載せる気になったのは弟子のフェッラーリがタルターリアの解法を発展させて4次方程式の解法を発見したからだった。それでもカルダーノは躊躇し、公開を決めたのはシピオーネ・ダルフェロの息子と知りあい、ダルフェロがタルターリアよりも早く3次方程式の解法を見つけていたと確認してからだった。もちろん著書にタルターリアの名前は明記している。

 その後の泥仕合はともかくとして、カルダーノは一応の仁義を切っていたのである。

 ずっと敵役とされてきたコーシーは加藤文元『ガロア』で突然親切な恩人になってしまい、いささか困惑していたのであるが、デュ・ソートイはコーシーを生い立ちにさかのぼり、傲慢で自己中心的であるが、血の通った人物として描いている。若い頃は造船所建設に駆りだされたり、知的刺激が受けられなくなって鬱になったり、傷つきやすい若者だったのである。

 しかし「自己宣伝を優先させて基礎工事を行なった人間に体する評価を怠る」傾向はいかんともしがたく、アーベルに先駆けて5次方程式に解法がないことを証明したルッフィーニの業績を科学で紹介すると手紙に書いても、実際はルッフィーニの成果を自分流に発展させたものだけを発表し、ルッフィーニの名前はとうとう出さなかった(ガロアの名前を出したのは異例中の異例だった)。

 科学アカデミーの会合が誰でも出席し質問できたというのも本書ではじめて知った。科学アカデミーで発表するとは会員だけではなく、不特定多数に発表することだったのである。

 別の本でソフィー・ジェルマンという女性数学者がガロアを無礼な若者と書簡に書いていると読み気になっていたが、本書によると三度目の論文を科学アカデミーに提出したガロアは、自分の論文が話題になるかもしれないと思い、毎週科学アカデミーに通い、「報告に口をはさんでは攻撃的な非難を繰り返す人物」としえ札付になっていたというのだ。

 ガロア理論の解説では方程式の解を複素平面上に図示し、解の間の対称性を目に見えるかたちにしている。解の置き換えがようやく腑に落ちた。

 リー群に関しては『シンメトリーとモンスター』の方がわかりやすいのではないかと思う。どちらも比喩による説明ではあるが。

 最後のモンスター群とムーンシャイン問題ではコンウェイが主役となる。『シンメトリーとモンスター』では「アトラス計画」を推進するコンウェイが描かれたが、本書では生い立ちからたどり、『アトラス』刊行後の活動におよぶ(デュ・ソートイが大学院に入った時点では「アトラス計画」は完了していた)。ここまで大きくあつかうのはコンウェイガロアやリーに匹敵する天才として敬意を払っているのだろう。どこがすごいのか門外漢はわからないが、魅力的な人物であるのは確かなようだ。

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