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『美しい夏』 チェ-ザレ・パヴェ-ゼ[著] 河島英昭[訳] (岩波文庫)

美しい夏

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夏の供犠

 「生きていくって思い出すことなのね」と、ある16歳の少女に言われ、胸を突かれたことがある。近頃のわたしにとって、読書とは思い出すことのようだ。『美しい夏』も例外ではなくて、読み始めるなり、あたかもデジャ・ヴュ(既視感)のような感覚に襲われた。やがて、それが記憶の底にあったコクトーの『怖るべき子供たち』を蘇らせていたことに思い至った時、ふたつの作品は重ね絵となって、回想と連想を往来させていった。


 『美しい夏』は、ジーニアとアメーリアという16歳と19歳の少女たちが、「女になってしまう」季節の推移を描いている。コクトーの子供たちは、パヴェーゼのそれよりもいくらか年若いとはいえ、ふたつの作品が共通して醸し出すものは、嫉妬・羨望・冷淡もしくは邪悪ですらある。いずれの主人公にも親はなく、姉弟もしくは兄妹という同胞と、それぞれの友人をめぐって、愛と所有の争奪が展開される。そして、『美しい夏』の男性たちは、希望や躍動に満ちるはずの彼女たちの夏を壊していく、利己的な略奪者として登場する。彼女たちを裸体のモデルにすることで、「体から皮膚だけがひき剥がされた」動かぬ女になることを強いる画家たちである。にもかかわらず、男性たちは、あくまで舞台の脇役であり、深い暴力は女性同士のあいだで遂行される。

 ダルジェロという不吉な少年が放つ雪の礫(つぶて)によってもたらされる『怖るべき子供たち』の破綻は、降雪の冬を始まりとする。それとは対照的に、『美しい夏』は、表題のとおり、夏をプロローグとする。けれども、季節の乖離を訝っているのも束の間、彼らの夏は見る間に失われていき、冬へと雪崩れていく。ジーニアは、裸身のモデルになることを選び、窓外の積雪を見つめながら、無彩色の凍る冬の世界へと踏み入っていくのだ。

 雪の礫が、どこか無垢な透明感を宿す塊であるのに比して、『美しい夏』の破滅の象徴は、梅毒の痼(しこり)であり、性的な生々しさとともに腐敗臭と死臭を放っている。このふたつの塊の相違は、パヴェーゼにとっての愛が、コクトーよりもはるかに重い罪悪を催すもので、同時に、深い喪失感と剥奪感をともなうものであったことに起因するのだろう。

 『美しい夏』はパヴェーゼが32歳(1940)の時に書かれたもので、出版されるまでにはさらなる9年を要している。三部作の第一部として出版され、翌年にはイタリアのストレーガ賞を受けている。ところが、その2カ月後の8月、まさに盛夏に、パヴェーゼは、ホテルの一室で自害している。天寿をまっとうしたコクトーとは対比をなす自死の選択は、おそらくは、パヴェーゼにとっての夏の意味に由来しているのだろう。「きみは夏になれないんだ。…ぼくはきみを愛さなければいけないのだろう。…しかし、そうすればぼくは、時を失うだろう」というグイードの台詞は、時が夏で止まるべきこと、そして、愛が時を止めることを示唆している。コクトーの子供たちは、どれほど残酷であっても、パヴェーゼの子供たちが病む、愛の不能は感じさせない。

 パヴェーゼは、遺作『月とかがり火』において、夏至になされる聖ジョバンニ祭を描いている。貧困とレジスタンスを後にアメリカへ移住した主人公が、火祭りの頃に故郷に帰還する物語である。民俗学民族学に通暁していたパヴェーゼは、循環する四季のなかでも、夏、特に夏至に深い意味を見いだしていた。豊穣と再生を祈る祭儀に避けられない供犠・生贄(いけにえ)は、『月とかがり火』においても、サンティーナという女性レジスタンス活動家の姿を借りて表される。主人公も季節も回帰する。ただし、時間の残酷の刻印は、埋められた死体とともに故郷の土に留まる。

 『美しい夏』もまた、ジーニアとアメーリアを夏至の供犠として捧げることで、夏に至るまでを失われた時間としていく。供犠を捧げる夏、そして失われたものを想起させる夏が、パヴェーゼの生きていく時間を止めた季節であった。その時間は、回帰して生きていく豊穣の時間ではなく、死を想起し、死を回帰させる時間だった。作品の最終行でジーニアがアメーリアに放つ台詞には、知らずに供犠へと向かう戦慄が凝縮されている。

 夏至を過ぎて自死したパヴェーゼの似姿が、主人公の少女たちには深く投影されているに違いないのだが、パヴェーゼはどうして、『美しい夏』において、女性を語り部としたのか?深い残酷を彼女たちに背負わせたのはなぜか?興味と謎は尽きず、残る二部作の翻訳が、切に期待される。パヴェーゼにとっても、「生きていくことは思い出すこと」で、そこには、いつも夏の祭儀と残酷が拭えぬ烙印として焼きついて、生き続けるための循環する時間を凍結させていたのかもしれない。夏の終わる前に、紹介したい一冊である。


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