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『茶の本 日本の目覚め 東洋の理想―岡倉天心コレクション』岡倉 天心(ちくま学芸文庫)

茶の本 日本の目覚め 東洋の理想―岡倉天心コレクション

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「これ、名著です」

西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。ところが日本が満洲の戦場に大虐殺を行い始めてからは文明国と呼んでいる。(中略)もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、我々はあくまでも野蛮人に甘んじよう。(「茶の本」p. 9)

 もうこの部分を読んだだけで、これが名著であることがわかる。ただの茶道の本だと思って敬遠してきた人がいたら、だまされたと思ってぜひ読んでみてほしい。

 1906年(明治39)にニューヨークで刊行された「茶の本(原題 The Book of Tea)」は、岡倉天心が外国人に向けて、日本文化を紹介するために英語で書いたものだ。「茶」の話を中心にすえたのは、お茶がアメリカやイギリスでも馴染みの深い飲料だったからだろう(なんといってもボストン茶会事件の両国ですから)。

 西洋文化を取り入れようとしゃかりきになっていた明治期の日本において、西洋と東洋を対等にあつかい、場合によっては東洋の優越性を語る天心の文章は痛快だ。冒頭に引いた文章も、東京美術学校(現東京芸大)で西洋画科の開設に反対しつづけた人物である、いかにも天心らしい皮肉のきいた文章だ。

 岡倉天心南方熊楠といった明治期の偉人の文章を読んでいると、貪欲に西洋文化を吸収しつつも、芯の部分には、日本文化、さらには漢籍に関する膨大な蓄積が感じられて、このころの日本人にはとてもかなわないなあ、と思わせられる。

 たとえば、

宋の詩人李仲光は、この世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じている。即ち教育をあやまって有為な青年を害うこと、低俗な鑑賞のために名画の品格を下げること、手際が悪いために、あたら名茶を浪費することである。(p. 18)

 こんな「茶気」のある引用が、次々と挿し挟まれる。

 また、茶道の根底にある禅宗、その裏にある道教の思想を語るうちに、いつしか話は天心の芸術論へとつながっていく。

(老師は)虚の中にのみ本質が存すると主張した。例えば部屋の実在性は、屋根と壁で囲まれた空虚な所に見出されるものであって、屋根や壁そのものにはないのである。水差しの有用性は、水を注ぎ込むことができる空所にあるのであって、その形状や原料に存するのではない。虚はすべてを含むが故に万能である。(中略)芸術においても同一原理の重要性が暗示の価値によって説明される。何物かを言わずにおくところに、観察者はその思想を完成する機会を与えられることになり、かくして大傑作はいやおうなしに人の心を惹きつけ、終には自分がその作品の一部分になるように思われるものである。(p. 33)

 ここで天心が語るのは、未完成の美だ。均等・反復を好む西洋家屋に対し、均斉や反復をさける茶室こそ日本の美だとし、美への謙虚さを、茶人の、ひいては日本人の美徳だとしている。

 正直、とても耳が痛い内容だ。いまとなっては、これは天心が「理想の日本人」を描いた本で、「茶の本」に書かれているような日本人をイメージして現在の日本に来た外国人がいたら、もう、ごめんなさい、私はこんなに奥深くないです、と恐縮するしかない。

 「茶の本」は、もとは英文で書かれたものだから色んな訳者の版があり、それぞれに特徴がある。

 最近文庫になったこのちくま学芸文庫版のいいところは、天心の代表作である三作品をまとめて読むことができることだ。

 「日本の目覚め」も日本を海外に知らしめるために書かれたもので、「茶の本」の2年前、1904年にやはりニューヨークで発行されたものだ。書かれた時代もあり、日本と朝鮮との関係についてふれた部分など、現在ではちょっと首をかしげたくなる記述も多々あるので、その辺は差し引いて読む必要があるだろう。

 「東洋の理想」は、「Asia is one.(アジアは一つ)」の書き出しがあまりにも有名な天心の代表作で、1903年にロンドンで発行された。第二次大戦中プロパガンダに利用されたこともあって、大東亜共栄圏につながるような内容かと思って読みはじめると、面食らう。ここで天心が書いているのは、いかに日本文化にインドや中国の文化が影響を与え続けてきたか、ということだ。まあ、さまざまな変遷を経てアジアの文化が日本で結実した、というような記述もあって、このあたりは御愛嬌だけれども。

 ちくま学芸文庫版は、このように天心の主要著作をまとめて読める〈お得版〉だ。

 せっかくなので、他の版も紹介しておこう。冒頭で引用した同じ部分を書き写してみるので、訳文の雰囲気など、気に入った版があれば、ぜひそれを手に取って読んでみてほしい。

 まずは講談社学術文庫版『英文収録 茶の本』。

西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。(中略)もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の栄光に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。(p. 15)

 これは原文も収録している〈ハイブリッド版〉。英語圏の友人にプレゼントするのに最適だ。

 原文の該当箇所も引いておく。

He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilized since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. (中略)Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war. (p. 217)

 次に角川ソフィア文庫版『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』。

日本がこの平和でおだやかな技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だとみなしてきたものである。それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗り出すと(日露戦争)、日本は文明国になったというのである。(中略)戦争という恐ろしい栄光によらねば文明国と認められないというのであれば、甘んじて野蛮国にとどまることにしよう。(p. 20)

 「ビギナーズ日本の思想」というサブタイトルがついていることからもわかるように、訳文も易しく、懇切丁寧な解説付きの角川文庫版はとても〈親切設計〉。「東洋の理想」のさわりも読めるし、初めて「茶の本」を読むならこれがお薦め。

 最後は、私がもっとも慣れ親しんでいる岩波文庫版から。

西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。(中略)もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。(p. 23)

 これは訳されたのが1929年(昭和4)で、ちょっと文語調の訳文になっている。天心自身が日本語で書いていたらこんな感じかな、というような文章だ。いってみれば〈天心風〉。作品が書かれた時代に近い雰囲気を感じながら読むにはこれが最適。

 他にも、淡交社版やマンガ版などがあるが、それらはまだ読んでいないのでなんとも言えない。

 いずれにせよ、「茶の本」は日本人必読の名著だと思うので、どの版でもいいから、ぜひご一読を。100年も前に、こんなことを外国に向けて言っていた日本人がいたのか、と、きっと誇らしい気持ちになりますよ。

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